洗いもんを片付けて宿題しようかと思ったが、母ちゃんはキムタクのドラマを見ているので先に風呂に入ってからのほうがよさそうだと判断し風呂に湯を溜め入った。風呂に入るまえに、今日ブックオフオンラインから届いた飯田泰之雨宮処凛「脱貧困の経済学」をぱらっとめくったら気になる箇所があったので、風呂でそこいらへんをちょびっと読む。ちなみに、風呂で本を読んでも特にふにゃふにゃにはならない。湯気もうもうのなか読んだらなるかもしれない。あと、もちろん人から借りた本は風呂では読まない。今日ブックオフオンラインから届いた飯田泰之雨宮処凛「脱貧困の経済学」をぱらっとめくったら気になる箇所があったので、風呂でそこいらへんをちょびっと読む、とさきほど書いたが、そこの箇所をなぜ気になったかというと、生活保護バッシング(批判というより・・)について釈然としないものがあり、なんというか、生活保護について「俺らが真面目にやっているのが馬鹿馬鹿しくなる」という言い方がよくあるが、「真面目にやっていれば生活保護の必要はないはず」という考え(信念?)の根拠がまったく謎だよなあ・・と。あと、生活保護に文句を言うときって「(生活保護の)不正受給問題」に文句を言うかたちが多いけど、なぜか生活保護自体が不正かのように言われがちなのも謎・・。なにより、そこで問題にされているのが生活保護あるいは社会保障の問題ではなくて、なにか別の問題、問題ですらない「気にくわない」という感情を、生活保護に文句を言うかたちで発散させているような感じがするのが、どうにも釈然としない。「おれはいろいろガマンしてちゃんとやってるのに、なんであいつが楽をしてるんだ、むかつく」みたいな感情。「たのしいこと・らくすること」を共有するのではなく「しんどいこと」を共有(強制)することで連帯感を保つタイプの社会特有の感情というか。といっても、こういう「ねたみ」みたいな感情を「(生活保護の)不正受給問題」に物申すかたちで発散させるという現象が発生してしまうのも、世の中ぜんたいとして余裕がないからだといえばそうだろなという気がする。めちゃくちゃ境遇が異なるひとは叩かずに、ある程度自分と境遇が近いひと、それも自分より悪い境遇のひとを叩いてしまいがち、ということもよく聞くし・・。では、飯田泰之雨宮処凛「脱貧困の経済学」第二章「ほんとうの敵は「世間の常識」?」よりちょびっと書き写す。

■飯田 失敗するのも成功するのも、努力と運が半々くらいだということを、みんながもうちょっと理解しないといけない気がするんです。「今の俺の地位があるのは、ぜんぶ努力のおかげだ」という人はどこかに無理を抱えている。
■雨宮 病んでますよね。
■飯田 そう。あと、そう思わなきゃ自分が保てない理由があると思うんです。
■雨宮 いわゆる正社員層にも、富裕層にも、それがすごく大きいと思いますね。しかも格差社会といわれるようになってからのほうが、今の立場にいる自分を肯定することによって、罪悪感から解放される、という考え方が広がっている。
 同世代で派遣切りにあった人がいるとか、道ばたにホームレスが溢れているとか、そういうことに対して自分はほんとうに責任がないのかと、実はすごく揺れていると思うんですよね。
 そこで「自己責任なんだ。あいつらはダメなんだ」と突き放すことによって、彼らに何もしないでいる自分が許される、というような屈折があるんじゃないか。いちいちそれに心を乱されていると生活が成り立たないから、身を守る作法としてそうやっている、という気がするんです。