木下さんからもっと日記を更新しなさいとのお達し。しかし、日記ばっかり書いている時はたんにヒマだったんだろうなあとも思う。2時間、3時間と日記に費やしたりしても、それ以外の時間がとれた。といいつつ、時間のことはおそらくどうにでもなると思うのだけれど、思いつきでぼんぼん書くことの良い面・悪い面あるわけで、悪い面がなんか気になってきたので、自重しています。もうすこし時間をかけて時には寝かせたりもしながらいろいろ考えごとをしようかと思います。なんかさいきんはでかいだけにぼんやりしやすい考えごとというか問題が気になっていて、現象なり状況を俯瞰する抽象的な視点と私という人間の個人の視点をどう繋げたらよいのかよく分からない。これはずっと分からなかったが、どう分からないのかがだんだん分かってきた。社会学の方法論みたいなものを調べたらなにか出てきそうではある。ひとまず、やたらベーシック・インカムベーシック・インカムいうのは気持ち悪いとまでは言わないが気をつけないといけないかもしれない。あまりにユートピアだから。それこそ研究者のレベルにおいては実現可能なものとして現実の効果について考えられているだろうけれど、なんというか私たちのレベルにおいてこういうことを希望として語りすぎると、それこそ来世へ希望を繋ぐ、みたいなことになりかねない。それはそれでいまが多少なりともしのげていいのかもしれないけれど、なんか嫌だ。


9、10、11月はわりと働いている。12月はヒマそうだ。5日はコモンカフェへ。宇波拓さんの 『影ソロ』と、江崎將史、竹内光輝、木下和重 『com+position』。コムポジションは、出張演奏ということだからなのか、もともと木下さん枠だったのか、木下さん特集だった。去年のフタリフェス京都のときに最近クリップライトを使っていると宇波さんが言っていたけれど、「影」演奏を見るのははじめて。会場はまっくらに。はしっこのほうになぜかハイハット・スネア・バスドラムのドラムセットがありマスクをした男性が座っている。反対のはしっこにアンプとギターがある。いくらかの間隔をおいて手に持った懐中電灯で壁や天井を照らす。段ボールの箱を分解して立てたものにクリップライトをつけて点灯。段ボールの直線の影が壁に映し出される。主に段ボールの影(直線やぎざぎざもある)と、なにかの器具(細長い棒のさきに小さな丸い輪がついていて棒の足にはおもりみたいなのがついていて自立する)の影やマイクスタンドなどの影をいろいろと構成して時間が経っていく。いろいろな物体を動かしたりかたちを変えたりすることで影に変化をつけていくのだけれど、最初からずっと気になっていたのは、影のカタチに根拠がないというか意図が見えないというか、やっていることと影のカタチの関係がないというか、影が変化していくことと影のカタチに関係がないというか、影のカタチの選択にルールが見えないということで、どういうことなんだろうと考え続けていたところ、まずひとつに「変化する」ということが重要なのであってどういう変化(どういうカタチ)であるかはたぶん問題じゃないんだろうなと思い、さらに「影」という手法によって「変化」の土台を二次元に限定しているなあと思い、続いて、これって視覚に基づいているけれどやり方としては聴覚に基づいた(音による)演奏に近いなと思い、そこからさらに、「根拠(ルール)のないカタチの単なる変化」の連続・積み重ね、ということが重要なんじゃないかと思う。正確には「根拠(ルール)が宙ぶらりんになったままのカタチの単なる変化」。くわしくいうと、音っていうのはどんなに根拠がなくとも、つまり発音の原因から振動としての音が引き離されても、「こういう音」として「聞けて」しまったりするのだけれど、(おそらく)会場にあったありあわせのモノの影で構成された「影」はフォルムとして美しくもなければ、なんかのカタチに見えるということもなく、かといってそこまで抽象的っていうこともなく、ひたすら中途半端に根拠のないカタチでありつづけるので、「こういうカタチ」として「見れない」。なんかずーっと違和感がある。違和感が違和感のまま変化を続ける。音だったらこういうことにはならないかもしれない。宇波さんはひとしきりどのくらいか20分くらいかガサゴソやったあと、会場のまんなかあたりに段ボール箱を積み始める。4個か5個積んだところで、3個目くらいの段ボール箱にクリップライトをつけて、ギターの方へ向かう。アンプに電源を入れたところらへんで段ボールタワーの上からふたつめくらいまでが落っこちる。とつぜん轟音でギターを弾き始める。少し経って、激しいドラムも始まる。5分くらい続く。ギターとドラムの音圧(振動)で段ボールタワーを倒す、っていうことなんだろうかと思いつつ、影パフォーマンスに唐突に轟音ギターとドラムがつけたされて、なんだかややこしくなって面白いことになってきたなと思う。段ボールタワーはびくともしない。ガーッとギターが鳴っていてバッと止んでドラムは続いていて宇波さんが懐中電灯で天井を照らすとドラムも終わる。ガーッと音が鳴っていてバッと止むと、なんだか分からないが、「終わった」感というか、オチがついたような気になる。いろいろと奥深いパフォーマンスだった。(あとから気づいたが、「根拠(ルール)が宙ぶらりんになったままのカタチの単なる変化」というときの「単なる変化の積み重ね」についてなにも書いてない)休憩をはさんで、『com+position』。木下さん特集。前半の5曲(だったか)は「しぐさ」によって時間を分節する曲。そのあと(楽器を)「構える」ことによって時間を分節する曲、最後に観客によって演奏者のテンポというかBPMというかを決められる曲。特に気になったのは、「構える」ことによって時間を分節する曲のなかで、演奏者それぞれ一音ずつやったかもっとやったか、音を出したこと。あれ、音出した!?と思って、どういうことか考えていると、ひょっとしたら、「構え」だけで分節された時間(の流れ)と「音」だけで分節された時間(の流れ)が重ねあわされているのかもしれないと思った。これはけっこう面白いんじゃないかと思う。ちょっと時間切れで木下さんの曲を詳しく書けないのが残念だけれど、前回のcom+positionから変化したことを見れてよかった。「セグメンツ」の内容だけ取り出すなら大きな変化はないけれど、形式、やり方が多様化していた。「しぐさ」とか。そのことで内容の見え方ももちろん変わる。終演後、木下さんと、「セグメンツ」というコンセプトをさまざまなやり方でやってみて、そのやり方に特有な性質によって「セグメンツ」のコンセプトが変化したりする(多様化、多義化?)のも面白いですよね、というはなしをする。コンセプト=概念を「実際に」やってみることの意味としては、やはりそれしかないと思う。概念ではなくイメージであればカタチにしてみないと分からないだろうが、言語で捉えられた概念のばあい必ずしもカタチを伴う必要はない。言葉なり記号だけで厳密に表現できるから。


またしばらくあまり日記を書かないはず。あさって労働に行って、次の日から6日間家業の手伝いに帰って、その次の日に労働に行って、というような予定。山森亮ベーシック・インカム入門」は一昨日くらいに読了。すこし再読。いまは見田宗介現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来」を主に読む。三章の「南の貧困/北の貧困 現代社会の「限界問題」2」の最後らへん。けんだそうすけ、ではなくみたむねすけ。貧困について面白いはなしが。三章より。105歳の男性に長生きの原因を尋ねて「悩みがないことだ」と答えた中国南部の少数民族や、アメリカの原住民のいくつかの社会などの、貨幣という尺度においては貧困であるが、本人たちの感覚としては幸福な生を送っている例を挙げたあと。

貧困は、金銭をもたないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。
 貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人びとが投げ込まれる時、つまり人びとの生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、「所得」が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。(豊かさと貧困の近似的な尺度として存立し、幸福と不幸の一つの基礎的な次元として成立する、というべきだろう。)

この一節も興味深い。

一日に一ドル以下しか所得のない人が世界中に十二億人もいて、七十五セント以下の「極貧層」さえ六億三〇〇〇万人もいるというような言説は、善い意図からされることが多いし、当面はよりよい政策の方に力を与えることもできるが、原理的には誤っているし、長期的には不幸を増大するような、開発主義的な政策を基礎づけてしまうことになるだろう。

ここから開発主義的な「貧困」の定義による「貧困」からの救い上げはかえってさまざまな測定不能な幸福を失う可能性があるのではないかという指摘が続く。ここらへんを読んでいて思うのは、貨幣からの疎外はそれぞれの事情によるとしても、基本的に全員が貨幣への疎外を生きる私たちに、貨幣ないしは数量的(もしくは大きいか小さいか、多いか少ないか)に計られる以外のなにかが見えるものなのかどうなのか。比喩というか類推としては把握できるのかもしれないけれども、直接どうこうっていうのはない気がする。相対的な欲求を軸に生産と消費をまわしてきたということも関係があるかもしれない。そういえば、このまえクロード・レヴィ=ストロースさんが亡くなっていた。