今日の朝日新聞のオピニオン欄に古市憲寿さんのインタビューが。取材したのは、ロスジェネ世代の35歳と団塊世代の先輩記者とのこと。「取材を終えて」には、「帰路、記者二人で語り合った感想は「今どきの若者らしいよね」。相手の若さをやっかみ、自分の失われた時間を懐かしんでいるとわかったうえで、「若者語り」をするのは悪くはない。」とある。なんというか、この人たち、ちゃんと話聞いてたのかしら?と思う・・。古市さんは、「若者論はしょせん、居酒屋のコミュニケーションツール程度のものです。僕らだって、今年の大学の新入生は覇気がない、自己中心的だとか言ってますから」、「若者論というのは階層差、地域差、性差を無視して世代だけに注目する乱暴な議論です。」、「ゲーム脳だ、サル(猿)化していると分析し、若者を『異質な他者』として区別しようとする。若者論は大人の自分探しだと思います。若者はこんなだが、我々はこうだ、と。若者をおとしめて世の中が変わるんですか?」と言っていて、つまるところ、世代が一緒ってだけで強引にひとくくりにして、〜世代というものにあたかも共通するなんらかの性質があるかのように見なして「異質な他者」化し、やつらと自分は違うって言いたいだけなんじゃないですか?そういう態度が気持ち悪いんですよ、そういうのって誰かのせいにして説教したいっていうのとはどう違うんですか?ということだと思うのだけれど、それを聞いてもなお、『自覚していれば』若者語りも悪くはない、と言うのはちょっとなんだかアレかもしれない・・。ほんと『自覚してれば、分かってやってれば、よいのだ』っていうのはよくあるけど、、これちょっと気持ち悪いと思うんだけれどもねえ・・。言い訳がましいというか。反論するなら反論すればいいし、なるほどなと思うのならそれでいいんだけど、「いやいやあなたの言うことももっともだけれど、自覚して分かってやるのならいいでしょ、まあけっきょく人それぞれでしょ」に逃げちゃうと、なんかもう「他人になにかを言う」こと自体が無意味になりかねない。うーん、まあでもこの文脈でいくと、問題は、属性でしか人を判断せず個人を見ない、みたいなことになってくるのか。ラベリング、レッテル張りの問題。まあ、、これは人間だれしも覚えがあると思うけれど・・。ない人はほんとにすごいと思う。いるとは思うけど。