梅棹忠夫イスラム教について誰ぞや(ウラマー?)と話して、論破されたけれども、気持ちとしは納得してないとなにかの本で書いていて、論理では人は動かないのだ、ということなのだ、というようなことを聞いたけれども、ちょっと違和感がある。梅棹忠夫が実際にどう書いているかはさておき、理解と納得は違う、論理では人は動かない、というのは、よく言われるし、まあそうだろうとは思うけれども、ただ単に人間には、論理で動くところ、気持ちで動くところ、が重なり合っているだけで、その状況に応じて、使い分けたらいいだけで、先の梅棹忠夫の話しにしても実際どう書いているかは分からんけれど、イスラムについて「納得」したい梅棹忠夫と、イスラムについて「理解」させたい誰ぞや、のあいだで、対話に「なにを求めているか」のミスマッチが起きていたというだけの話なのではないか。「理解」で進む物事と、「納得」で進む物事があり、なにもかもどっちかだけというわけにはいかない、というただそれだけのことで、「理解」で進むような物事について「納得できない」と文句を言っても意味がないし、「納得」で進むような物事に「理解できない」と言っても意味がない。なので、この物事は「理解」で進めた方がいいのか、「納得」で進めた方がいいのか、段階に応じて使っていくのか、ある程度みえてないと、行き違いや混乱が起きる。デザイン、クライアントワークと言ったらいいか、とかによくある行き違いかもしれない。デザイナーはそのデザインの正当性をプロセスあるいは論理として外在化して示すけれど、クライアントは納得を求めている、というような。もちろん納得・気持ちを通じてデザインしていく人もいると思うけど、デザインが技術であるからには、プロセス・論理として外在化できるので、外在化の手法のデザインが必要なんかもしれないけど、このへんは私の手にあまるから、これ以上は分からない。ちょびっと整理してみるに、論理はいくつかの方法でそのプロセスを記述・外在化できる。納得はそのプロセスを外在化できない。納得はだいたいの場合、「なんとなくわかる」みたいに、見えない文脈の共有で起きてる。ということであるならば、文脈の共有ということならば、文脈を見えるようにすることで外在化できそうな気もしてくるけれども・・・。で、ごく最近気づいたのだけれど、私はフェイスブックのプロフィールに「工夫と納得について」興味があると書いていて、この場合の「納得」について、かなりの程度外在化されたプロセスだと考えていた。なんというか、理解と納得の二段階をひとまとめに「納得」と言ってたというか。「納得」のほとんどは論理的な手続きだと思っていたけど、どうなんだろ、違うのかしらな。あと、最初に書いた梅棹忠夫が書いていたという話は、さまざまな理由からそもそも分かり合えない人間同士の場合、お互いの(共通)理解の範囲をどれだけ増やせるかが肝要なのだ、ということなんじゃないかなとも思う。理解だけでは納得に至らない、論理で人は動かない、とかじゃなくて。まあ、実際どう書いてるか分からんから分からんのだけど。あと、このまえツイッターでナカノさんとアクビ君と話したけれど、いわゆる表現行為における「内輪問題」って内輪って言葉を使わずに「党派性」の問題として考えた方がすっきりしますですね。内輪っていっちゃうと、たとえ党派性の強いものであっても内輪でなければいいみたいになる。いろんな属性の人が関わっているとか、たくさんの人が関わっているとか。つまり、いろんなお客が来たから、たくさんのお客が来たから、内輪ではない、というような。もちろん多様性と動員は党派性を弱める可能性はあるけど。場合によってはぜんぜん弱めないこともある。なにかひとつの目的のために、いろんな人がたくさん集まって、その目的に異議を唱える人たちを排斥するとか、よくあるように思うけど。まあ、党派性も攻撃的でない限り、別に問題ないと思うが、攻撃的なものを党派性と呼ぶのかもしれない。