ほんとツイッターフェイスブックで違うこと書いてると、ますますここを書く時間が取れなくなる。下書きに保存されている文章はけっこうあるけど、なんかすぐ使えるのがあるのかというと、たぶんない。と書いてはみたものの、使える使えないをどう判断するのかよくわからない。そもそもなぜ下書きがあるかというと、たんに、書いているうちに時間切れもしくは気持ち切れになったというだけのような気もする。「2009-09-04 14:24:41」に下書き保存されたもの。いつものごとく、なにかに文句を言っている。カロリーゼロのコーラなら、コカコーラゼロよりペプシネックスの方が、カロリーゼロの甘味料に特有の舌にまとわりつく感じが少ない。寝る前に布団に寝っころがって本棚を見ていたら、「Practica アートという戦場 ソーシャルアート入門」の背表紙が見えて、ああそういえば買ってたなと思い、ぱらぱらめくる。「ソーシャルアート史」という特集が目にとまる。アーツ・アンド・クラフツ(1861〜)にはじまり、ダダ(1916〜1922)、未来派(1909〜)、表現主義(1905〜)、ロシア・アヴァンギャルド(1910’S〜)、シュルレアリスム(1924〜)、バウハウス(1919〜1933)、レトリスム(1950’S)、アメリカ・アンダーグラウンド(1950’S)、シチュアシオニスト・インターナショナル(1957〜1972)、フルクサス(1962〜)、ボイス/自由国際大学、脱美術館化(1960’S〜)、日本の前衛美術運動(1910〜)という順番だけれど、別にこの順番で歴史が刻まれてきた、ということでもない。そういえば、以前、アーツ・アンド・クラフツについて調べていたときに、朝日新聞社がやっている「生活と芸術」運動というののサイトにたどり着いたことがあって、「生活」と「芸術」というものを、「いつもよいモノ、よいことについて、自問自答をくりかえすこと」を芸術だと考えることで、つなげる、ということの模様。芸術という概念の拡大、という意味ではフルクサスもそうなのだろうけれど、いまの時代の状況に照らし合わせて考えてみるに、「いつもよいモノ、よいことについて、自問自答をくりかえすこと」を「あえて」芸術だと考えることに、どんな意味があるのだろう、と思う。生活や社会について日々かんがえ、自分の身の丈レベルで実行する、といういたってふつうのことを、「大きな」意味づけなしにはできない、近代人というか都会人(物理的な環境のことではなくて、意識のうえでの。なので、田舎にも都会人はいる)が、必死になってやっている自己暗示みたいに見える。そしてそういう「大きな」意味づけ=自己暗示をかけていく過程で、芸術というものがいままで持っていた「権威」というものを安直に利用するだけなのであれば、最悪の場合、その「権威」をコントロールできずに絡めとられる可能性もある。「権威」の認める『「アーツ&クラフツ」なスタイル』を消費して、自分の生活はゆたかだなあと安心する。どのようなモノやコトや価値観や考え方が「生活と芸術」の理念に沿っているか、などという議論ではなくて、もっと単純で簡単な「自問自答」のあり方を議論するだけで事足りる気がする。それさえあれば、個々人が勝手に自分の抱える問題意識に沿って、自問自答し、実行していくだろう。