森政稔「変貌する民主主義」はこのまえ、いつか忘れたが読み終えた。その後に読み始めた斎藤環心理学化する社会」も大阪までの新幹線と西宮の風呂のなかで読み終えた。非常に読みやすかった。「情報環境論集 東浩紀コレクションS」の「情報自由論」はどこまでいったかな、1−7くらいまでいったかな。いま近くにないから分からない。昨日から、安田雪「「つながり」を突き止めろ 入門!ネットワーク・サイエンス」を読み始めた。ひとと話していてつくづく不毛だなーと思うことがあって、そんなに頻繁にあるわけではなく稀にだけれども、稀にだから印象に残るのかもしれないけれど、調べれば事実が分かることについて、あやふやな知識に基づく、意見と事実を混同した議論もどきが起きること。たとえば、「○○は■■だと思ってたけど」「いや、○○は△△のはず」「いやいや、○○の▼▼が◎◎だから■■のはず」みたいな言い争いのようなものはとことん意味がなくて、つまり調べれば解決することについていちいち自説を論証するのは時間の無駄だし、そもそもその自説の根拠になっている知識からして曖昧である場合が多く、お互いに曖昧な知識のまま自説の論証のみに力を入れるからこうなるともいえる。なんでこんなのに熱中するのか考えてみたらば、意見と事実の混同につきるような。双方ともに事実を述べているつもりで意見を述べていて、しかもそれをお互いに違うと言い張っているわけで、なにを!おれの言うことにいちゃもんつけるのか!という感情から、言い争いのようになっていく。子供の頃こういう言い争いをよくしたような気がするが、私たちいい大人もよくやっている。あと、こういう議論もどきの単なる言い争いは、当事者同士に上下関係がある場合には起きなくて、まあ下の者がスルーするからなんだけれど、反対によく起きるのは、上下関係ではないがライバル意識がある関係であったり、お互いにお互いを下だとみなしている場合であったり、または下だとみなしている相手に反論されて熱くなったり、まあただ単にむしゃくしゃしていたり、という具合だと思われる。ほいで、互いに信頼関係があれば、相手の言うことにも一理あるという前提にはなしを聞くので、議論もどきの不毛な言い争いは起きない。というか、「相手の言うことにも一理あるという前提にはなしを聞く」ことの基礎が「信頼関係」という状態がまずいのであって、信頼関係がなければ「相手の言うことにも一理あるという前提にはなしを聞く」という前提もなくなるわけで、しかし、そのような「信頼関係まかせ」がまずい、っていうのは、「日本人はディベートができない」とか、そういうはなしにつながりそうで、これはこれでなんだかつまらん。あと、意見を事実だとみなして言い争いするのは無意味だけれども、なんらかのテーマに関する自分の意見を論証しあうのにはもちろん意味がある。なんらかの事実についてのはなしをしているときに、自分の意見というかあやふやな知識による思い込みを「いやこれが事実なんだって!」とお互いに言い張るのは時間と精神力の無駄なので、やめたいな、と思いました。あと仮に自分の主張が事実だったとしてもそれ「も」事実だということだったりします、結局。あれ、これどういうことだったっけ?◎◎だよ。そうだっけ、■■じゃなかったっけ。という時は、こじれる前にさっさと調べるに限る。あと、ちょっと前から、リチャード・フロリダ「クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭」も読んでいて、序文と1章を読み終えたところ。一冊を通して「クリエイティブ」という単語がどのくらい出てくるか数えてみたいが面倒くさい。