今日、昨日の日記を書く。朝っぱらから濃い料理の匂いが外から。音箱展。初対面の知らない人とはなすのも疲れてきたので、もうほとんど話しかけない。手を後ろで組んでぶらぶらする。というと怒られそうだけれども。箱の横にあるボタンを押さずに箱を開けていっているおばさんがいる。ボタンを押すと音が出ますよー、と言うと、まずボタンを押すって書いとかんと、箱を触ったら危険とか、とおっしゃる。そんなにこの箱は危険じゃないですよ、と言う。説明パネルの位置というか、会場の人の流れの導線が良くないのか、会場に入ってきてしばらくボタンを押さない人がたまにいて、そういうときに他に人がいれば、その人がボタンを押して音を聞いているのを見て、自分もボタンを押し始めるのだけれど、他に人がいないときは、その人に見えるところで、なにかの点検をするふりをしてボタンを押して音を聞く姿を見せるようにしていて、そうするとそういう人(どういう人?)もボタンを押し始める。井上明彦さんとお初にお目にかかる。一回限りの出来事がその都度立ち上がること、無限の(厳密には、というか、現実世界では物理的に明らかに有限だが)計算可能性・反復可能性の落とし穴、などについて。渋谷慶一郎さんの日記の08.05.10(Sat)より(http://www.atak.jp/diary/2008/05/10.html)

サービス・ポップは息切れしている。が、サービスのスキルアップと経済、レスポンスがほぼ同義なので葛藤の存在は無意味だ。で、これらは現在、対立軸として語ること自体が困難で、つまりアートかポップかという二項対立は成立しないのは近代以降かつてないような相互無作用、無関心が引き起こす乖離によるもので、つまり関係ねーよとか知らねーよという無気力が引き起こすとてつもない倦怠が氾濫している。少なくとも僕は特に日本にいるときにそれをものすごくつまらなくて退屈だと感じている。これがポップが圧勝してたりすれば分かりやすくていいのだが、全然そうではないところが面倒なのだとすら思う。だって全然つまらないからね。ただ音楽は一番問題が深刻な気がしているんだけど、これは書くと滅入るから書かない。ただ、僕は僕のやり方でこの問題に対応しようと思っているし、今作っている2つのCDは違う方向にそれぞれ振り切ったものになると思う。で、今までとは違う感じになる気がしている。

ほんとにポップが圧勝したりしてれば、そっちの方がぜんぜんいまよりマシかもしれないし、こういう倦怠がどこまでもつまらないのは、それが、境界を越えるとか、二項の対立を克服する、とかではなく、たんに自分の都合に合わせて立場を入れ替えるだけのダブルスタンダードだからだ。会場で手を後ろで組んでぶらぶらしながら、直嶋竹内平間小田コンピの次回作に向けての構想を練っていたら、思いついたアイデアがあって、そのアイデアと「雨に拍手」の類似性について考えるなかで思ったのは、「雨に拍手」において拍手を強調しなかったのは、感覚器官を限定することで、つまり今回は聴覚(音声)という感覚に絞ることで、可能になる、普段混ざり合わないものの混ぜ合わせ、結びつき、みたいなこともあるかもしれないということ。本来「なにかをつくる」ためには、ひとつのプランやアイデアをいろいろ実験したり試作したりしながら、そこで考えを深めていき、プランに反映されたりしながら、ただひとつの「完成」に向かっていくのかもしれないけれど、「要するに」、「なにかをつくる」あとではなく、まえにいろいろ考えておくべきものだという考え方があって、それがそのまま、自分がつくったものについて自分でしっかり説明できないといけない、という考え方にも繋がるのだけれど、もちろんその考え方は筋が通っているし、それじたいでは反論の余地なくそうだとは思うけれど、私にはそれができない。ただひとつの「完成」へと少しづつ向かう、という行為それじたいが、無限の選択肢・無限の計算可能性・無限の反復可能性を含んでしまっていて、そんなきりのないことはできないし、ものすごく単純に考えれば、最後の「選択(完成を決める)」に関して自分で納得して責任を負う覚悟をするために、様々な実験や「ためらい」を経るわけで、私の場合そのプロセスが逆になっているようにも思う。まず「選択」して取り返しのつかないことになってから、考えるし、「ためらう」。でもだからといって、その「選択」に全てをかける、とかいうのでもなく、「選択」はただのスタートというか、「選択」したあとが楽しいと思っているので、その「選択」じたいはどんなものでもよかったりする。どんなものでもよい、といいつつ、結局なにかひとつを「選択」せざるをえない、というプロセスそのものに興味があったりもする。「選べない」病・「ためらい」病に抗うこころみでもある。