うーむ、ちょっと前から、1年くらいか、わからんけど、反論を試みたい言い方というかロジックがあって、それは「やってから言え」ロジックなのだけれど、まあ正論ではあるので、正論であることはまず認めたうえで、結論からいえば、正論にありがちな暴力性ゆえに容認できない、ということで、まあ結論はこれなのでこれ以上言うことはないけれども、正論にありがちな暴力性ゆえに、ではあまり説得的ではないので、すこし補足してみるに、この「やってから言え」ロジックが出てくるのはたいていの場合、「やってる」人に「やってない」人が意見をしたり異論を出したりするという状況。「やってる」人に「やってない」人が意見する状況に第三者の「やってる」人が絡むということもある。とりあえず、ロジックの構造のはなしなので「なにを」やってる/やってない、かは問わない。ロジックを使うやり方が暴力的だから私は断固として容認しないというはなしなので。まあ、よくありますでしょう、こういう状況。専門家に非専門家が意見するとか。当事者に非当事者が意見するとか。まあほいで、「やってる」人に「やってない」人が意見をしたり異論を出したりするという状況が発生したとして、そこでたとえば、「やってる」人の側からみてその意見が「的を射ていない意見」、「いいがかかり」だと判断されたりした場合に、その個別の意見に対する回答の代わりに「やってから言え」が出てくる。「やってる/やってない」「専門家/非専門家」「当事者/非当事者」という非対称的な関係を作り出したうえで、その関係を根拠に、「あなたの意見は聞くに値しない」と言うわけなのだけれども、そもそもこのロジックは「やってる」人しか使えないわけで、かつジョーカーみたいなもんで、「やってから言え」と言ったあとに相手がなにを言おうと「やってから言え」一点張りができちゃったりもして、なんというかな、これは「やってる」側の特権なわけです。そもそも「やってる」人に「やってない」人が意見を言うときには、そういう潜在的な非対称性がある。で、その非対称性が出てくる、言いかえればジョーカーを使うタイミングが、「やってる」人が「やってない」人の意見をどう思うかというこの一点にかかっていて、これが問題。つまり、「やってる」人の側からみて「やってない」人の意見が「的を射ていない意見」、「いいがかかり」だと判断する根拠が問われないのが問題。問うたとしても、いーや、やってない人の話なんぞ聞く耳もたん、とか言われたらそれで終わり。あと、人からなにか言われるのはそんな気分のいいものではなかったりするので、その「気分のいいものではない」気分によって、意見が的を射ているかどうか、いいがかりなのかどうか、の判断にかなりバイアスがかかるものと思われる。そもそも、その意見がいいがかりであったとしても、やりようはいくらでもあるのに「やってから言え」を出しちゃうのは、楽しくないし、なんか大人げないというか。。うーん、なんだ、つまるところなんだ、「やってる」人に「やってない」人が意見をしたり異論を出したりするときって、「やってから言え」ロジックというジョーカーを使うことのできる「やってる」人の方が強いわけで、しかも実のところ相手の意見や異論が正当かどうかと関係なく「やってから言え」は言えてしまうので、それではあまりにも「やってる」人の方が強すぎるわけで、そういう関係の非対称性を考慮せず「やってから言え」ロジックを振り回すのは、どうなのかなと思います。繰り返すけれども、「やってから言え」は相手の意見がどんなものであろうとその内容に関わらず言えてしまう。意見を言う主体の属性、「やってない」という属性、において成り立っているロジックなので。単に自分の気に入らない意見だ、ってだけでも「やってから言え」ロジックを使って相手を黙らせることができる。それは人と人の対話として、どうなんかなと。さらに、こういう非対称性を分かったうえで、「やってから言え」ロジックは「やってる」側の特権であり、我々「やってる」側にはそれを自由に行使する権利がある、と思っている人が万が一にでもいるとしたらば、したらば、なんだ、別になんでもないけど、怖いなとは思う。ああ、そういえば、「やってから言え」って言いかえるならば「あなたにそれをいう資格はあるのか」ということで、なんというか、典型的な属性ベースのコミュニケーションだなと思う。「やってから言え」のあとに「こういうことをやってます」ってなったときには、「それは失礼しました。お仲間でしたか」みたいにちゃんと対話に応じたりするもんだけれども、なんでそう「自分の仲間」としか話したくないのかなとは思う。疑問だ。時間の無駄だと思っているのかしらな。まあそれはそれでそうなんだけれど、どうなんかな。いや確かに自分がやっていることについて、それをやってない人から意見されるのは、得るものが少ないのかもしらんけど、、まあ私はそう思わないからいまこういうのを書いているんだけど、まあどうなんだろうかな。そういえば、この前もツイッターで、アートの話をしているふたりのやりとりを読んでいて、話が平行線になってきた途端に「やっぱりアート大好きっていう人とでないと話が通じませんね」みたいに言ってる人がいたけど、こういうのってちょっと極端というか、自分に都合のいい、心地よい話しかしたくないんかなと。うーん。あとは、なんやったかな、「なんで〜なの」ロジックというか、ロジックじゃないけど、言い方はやめた方がいいよな、ぜんぜん生産的じゃないし、と思っていたら、やっぱりなんかえらいひとがそういうことを言っているらしい。さすがえらい人はすごい。というわけで、私は「やってない」人もどんどん意見を言っていいし、それがどんなに偏見であろうとそれを言わなければなにも始まらないので、どんどん言うべきだし、言ったからには叩かれることもあるけれど、叩かれて納得したら意見を変えればいいだけだし、自分の意見を言っただけで、なにも損することはない。だいたいなー、やってる/やってない、なんて、どう線引きするんだ。たとえば、社会のために行動してる/してない、なんて、どう線引きするのかね。たとえば、社会のために行動してる/してない、なんて、どう線引きするのかね、と考えることは、社会のために行動しているのか否か。たぶん否なんだろうなと思うくらいには、なんちゅうか、想像力が働くわけなのだけれど、やってない側から文句を言うとするなら、「自分はやってる!(少なくともやろうとしてる!)それで、お前はどうなんだ?!」っていうのって、なんというかな、自分がやれてるかどうかの不安を、自分よりはやってないと思われる誰かに、押し付けることになりはせんかな、ということを言いたい。言いかえれば、それを言うことで誰が得をするの、という。あんまり誰も得をせん気がするけど。「一緒にやりませんか」でいいじゃんと思うけど。でもなあ、不思議なもんで、「自分はやってる!それで、お前はどうなんだ?!」って叱られたい人たちっていうのも、存在するのよね。誰かにガーンと言われて自己否定されて、その人の価値観に染まっていく、のが心地よいっていう。俺はなんにもやってないな・・ダメだな・・って反省する、っていうことはやってるよね!俺、一歩踏み出したよね!って安心する、とか。なんか、これ、洗脳みたいだな・・。カルトっぽいな。。古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」は「第五章 東日本大震災と「想定内」の若者たち」まで読んで、次は「第六章 絶望の国の幸福な若者たち」。なんちゅうか、このシニカルさは、ちょっとむずかしい気もするが、面白いのは面白い。たぶん、結論というか、何を擁護しようとしているか、の部分は、私もこの人と同じ気がする。ジグムント・バウマンの「コミュニティ 安全と自由の戦場 」と「アイデンティティ」がブックオフオンラインに出てきたので注文した。で、「バウマン コミュニティ」と検索すると、松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇が出てくるので、とりあえず読んでみた。引用する。これがバウマンの言っていることと整合しているかどうかは分からないので、とりあえずセイゴウの意見として読む。

さて、バウマンのコミュニティ論であるが、その結論は「このままではコミュニティは際限なく衰退していくばかりだろう」というものになっている。
 そう結論づけたくなる原因はいくつかある。柔らかいところからいえば、まず第1に、「放っておいてほしいんだ」「どこにも属したくないんだ」と言いたい連中が急激に広まっているということがある。これを社会学では「脱領域性」(exterritoriality)というのだが、自分の周辺以外は無関心でいたい、所属領域から分離されていたっていい、面倒なら引き下がればいいんでしょうというような心情が、企業にも近隣にも官僚社会にも学校にも蔓延しつつあるわけなのだ。
<中略>
第2には、このような脱領域的感覚が、一方では「クール」だともてはやされてしまったことがある。これは例のディック・バウンテンとデヴィッド・ロビンズの『クール・ルールズ』(研究社)がふりまいた社会ウィルスで、「本気で親密な関係をもつことに対する拒否」から生じた感覚をいう。つまりは、気まぐれに結婚し、適当に仕事をし、飽きたらクールに離婚し、とくに相手を占有しなくったって好きにセックスができ、いつだって自分の所属する社会からの撤退や逃走ができるというその感覚を、うっかり「クール」と名付けてしまったのだった。
<中略>
 ようするに「親密はわずらわしい」「本気は勘弁してほしい」ということである。かつてなら、これはセーレン・キルケゴールによって厳密に「絶望に至る病」とよばれていたのだが、いまではこれがクールでカッコいいことになった。
 これでは本気のコミュニティなどできるわけがない。せいぜいブログやミクシィで疑似コモンズに遊ぶ程度のことだろう。しかし本当のコミュニティは「本気になるのは勘弁してね」ではなくて、「勘弁を本気でつないでいくこと」にこそ始まるものなのである。
<中略>
すなわち第3には、そうした感覚がいまや「新たなアイデンティティ」をもたらすという“勘違い”を決定的にもたらしつつあって、それが社会における流動性をさらに加速させているというふうにもなっているということだ。

うむ、たしかに身に覚えがあるな、と確認しつつ、だからなんなんだよと読み進める。

 それに加えて、もっと大事なことを言っておかなければならない。コミュニティというものは、何も「目標のコミュニティ」とはかぎらないということだ。むしろ「通過のコミュニティ」こそが重要なのだ。ヴァルター・ベンヤミン(908夜)ならとっくに「パッサージュしつづけること!」と言ったはずである。また近くは、ノルウェーの人類学者フレデリック・バースが「今日においてコミュニティをつくるには境界線を引き続けなければならない」と示唆したはずだ。
 さきほど紹介したウルリッヒ・ベックは、社会システムの矛盾を追い払うには、「一人一人が伝記的に解決する」ために集まった場を創発的にもつしかないと提案し、リチャード・ローティはコミュニティに必要なのは「厚みのある記述」だとさえ言ったのだ。伝記的に、厚みをもって、諸君、諸君が属するコミュニティをもっと痛快にしていきなさい。タンタロスの罪を怖れずに。

ふーん、だとしたら、「脱領域性」と「通過のコミュニティ」はけっこう親和性があるんじゃないかと思った。ちょっとスライドするだけで可能だし、実際にみんなやってもいるような。しかし肝心なことは、スライドはけっこうむずかしいというか、いわゆる社会関係資本というか、ともかくいわゆるコミュニケーション力とやらが必要になるような。あとは、「脱領域性」が存在するのは都市部だけのような。逆か。脱領域的感性は都市に集まるというか。あとは、あまり関係ないけど、テーマ型コミュニティの難点として、難点というかたぶん定義上そうなのだけれど、テーマに沿った活動あるいは話しかできない、基本的に。しかし思うに、地縁型コミュニティやテーマ型コミュニティの基礎になる、構成する人たちそれぞれになんの共通点も持たない、つまり地縁もテーマも持たないが、地縁やテーマを成立させるための信頼だけを担保するメタコミュニティみたいなもんが可能である気もしなくもない。いま思いつくのは、地縁型コミュニティの変形ともいえるけれど、お互いの名前も属性もまったく知らないがおなじ場での顔見知り、というような関係。飲み屋や銭湯の常連とか、毎日同じ電車の同じ車両に乗ってるとか。お互いになんのやりとりがなくても、定期的に顔を合わせるだけでなんとなく信頼感が生まれる。おそらく重要なのは、お互いのことを知らないままに、毎日ただ顔を見るというだけで、なんとなく信頼感が蓄積されるということで、この信頼感をベースに、それぞれの属性やら持ち寄ったテーマやらを乗っけるコミュニティをつくればいいんじゃないかなと。まあ、メタコミュニティというより、別の地縁型コミュニティか。お互いのことを知らないまま同じ場を共有し続けることで生まれる信頼感がベースだから。テーマ型コミュニティの難点をもうひとつ思いついた。コミュニティを構成する人たちのテンションが「高い」方に最適化される傾向があるような。まあ、そりゃテーマ型だと特にそうだと思うけど、盛り上がらないと面白くないわけで、当然といえば当然だが、テンションが低い人をも包摂できる形態はちょっとむずかしいし、そもそもテンションが低くなってしまった人は居心地が悪くなって離れるか、してしまうだろうし。低テンションに最適化されたテーマ型コミュニティが可能かどうかは気になるな。単なる「居場所」化するだけかもしれんけど。部室に集まるという活動をする部活というか。