去年の夏の終わりくらいやったか、中学からの友だちとその先輩がとあるイベントに彫刻を展示しているとのことで、遊びに行ってみた。そこでその友だちから先輩を紹介され、私を先輩に紹介してくれたのだけれど、そこで「コンセプチュアルな作品をつくっている」と紹介してくれたのがまずかったのか、、そうなるとどんな作品なの?と必ず聞かれてしまうわけで、最近私はこういうことをやりました、という話をせねばならず、なぜかその話に妙に厳しかった。そのときちょうど「第1.5 回 全感覚派美術展+第1回全感覚派音楽会」に参加したあとだったので、「第1.5 回 全感覚派美術展」に、上下の温度差がだいたい1℃になるように離して設置したふたつの温度計、というようなタイトルで(そのときはそういうタイトルだったけれど、あとで「1℃の幅(上下の温度差がだいたい1℃になるように離して設置したふたつの温度計)」にすればよかったと思った)、壁に温度計をそのように設置した、という話をすると、どこで(それをやったの)?と聞かれ、東京ですと答えると、そういうことは(東京では成り立っても)佐賀では成り立たない(許されない、やったかな)、「それで?だからなに?」ってなるよ、とのことだった。たしかに「それで?」ってなることもあると思うので、そうかもしれませんねえ、まあやってみないとわかんないことですけど、と答えておいた。このやりとりでまず面白いなと思ったのは、私のやったことについてどう思うかを「佐賀では成り立たない」というような言い方をしたこと。気に入らないなら気に入らないの方がましだなあと思うけど、どうなんだろうか。そういうふうに客観的な理由らしきものを持ってきて正当化しないと、気に入らないって言えないのか、ということがひとつ。「だからなに?」問題についても同じ。その友だちの先輩が私のやったことに対して「だからなに?」と思っているにも関わらず、それを佐賀でやったらという仮定のもと(観客に)「だからなに?」と言われるよ、という言い方をするのはなんだかなと思う。そもそも誰もそれを佐賀でやるとは言ってないし。もちろん「だからなに?」問題はある。それは東京でも佐賀でも同じようにある。「だから、なに?」と言うからには、だからの前の部分は了解していて、その後に対して疑問を呈しているわけだ。それ(私のやっていること)がなにかは「わかる」が面白いと思わない、ということかと思う。いいじゃんそれで。前半わかったんなら、それでいいと思う。前半だけはなるべくちゃんとわかるようにつくりたいが、後半はタイミングや関心の近さなどによるので、なんともいえない。「俺には面白くない」は私の責任ではないし、あなたの責任でもない。そのときは関心や考えが合わなかっただけなんだろう。だいたい「だから、なに?」なんてあらゆるすべてのものに対して言えてしまうわけで、それを言ったところで「俺には面白くない、俺は好きじゃない」以上の意味はない。どういうふうに「だから、なに?」なのか言ってもらえれば意味のある話ができるけれど、それしかないのであればこちらも「「だから、なに?」だから、なに?」となってしまう、、残念ながら。言わないと分からない、お互いに。もちろん私にとっての面白さを言うことはできるけれど、それが「コンセプト」であるとか「作品の意味」であるとかいうふうになってしまうのは目に見えているし、なんらかの作られた品を経験するにあたって、作者の意図を理解する=作品を理解する、というふうには考えないので、いちいち言わない。室内空間には天井と床のあいだに温度差があり、そのなかには(だいたい)1℃の幅というものがある(つくれる)、というのは分かると思うし、それは分かってもらっているだろうし、それ以上の意味はない。たぶん、それ以上の意味を見いだせないから、「だから、なに?」が生じるんだろうけれど、「だから、なに?」ってなに?といつも思ってやっているので、そういう作り方になってしまうのかもしれない。「美術・芸術を見ることになにを期待しているのか?」という。。いったいなにを期待しているんだろう。知ったことではないけども。とはいえ、たしかに、「美術・芸術について「だから、なに?」って言いたくなるのってなに?」っていう関心・問題設定は少数派のものである、というのはそうだけれど、その関心・問題設定のもとでしか見ることができないわけでもないしなあ。むしろ、まあたしかに1℃の幅だな、という了解が得られればそれでいい。あとは、「成り立たない」っていうのは誰がどのように判断するんだろう。逆に、どうなってれば「成り立っている」んだろう。美術・芸術の形式に照らし合わせて成り立ってないとか??それか、つくった側とみる側で「これはこういう美術・芸術なのですね」あるいは「これはこういう意味なのですね」という同意が成り立つ、という意味での「成り立つ/成り立たない」なのかな。うーむ、たぶん言わんとすることとしては、東京ではそういうややこしいことは受け入れられるけれど、佐賀でやってもダメだよということなんだろうけども、どこへ行っても誰の前でも、つまりどのような文脈においても変わらず「成り立つ」ものなんてそもそもあるのかいな。まあたぶん、美術・芸術は普遍的であるので、どこへ行っても誰の前でも成り立たないといけないという規範に基づいて言っているんだと思うけど、私はその規範には妥当性がないと思うので、知ったことではない。その場、その状況ならではのことをやったら、それがいちばんいいと思う。私はモノをつくらないので、余計にそうなんだろうけど。自分のアトリエとかでつくって、どっかへ持って行くのではないから。つまり、必ずしも文脈に縛られない環境(文脈なしというより、自分の文脈ともいえるけど)でつくったものを、文脈のあるどこかへ持って行くというわけではないから。もちろん、自分の文脈でつくったものを、設置する場所の文脈に応じて構成しなおすというのが一般的なんだろうけど、「普遍的な」ものを作りさえすればどこへ置いても成り立つ、というような考えには賛成できない。なにより「普遍的」ってなんだ。統計的なもんか?ヤフー辞書には『広く行き渡るさま。極めて多くの物事にあてはまるさま。』と書いてある。まあたぶん統計的なもんなんだろう。「極めて多くの」であるからには例外もありうる。なによりこれを「あらゆる全ての」としてしまうと、成り立たないからね。あらゆる全ての人に当てはまるなにか、など定義できない。普遍的な表現ってなんだろう。生き死にをテーマにしても必ずしも普遍的とは言えないし。生き死にをリアルだと思わない人ももちろんいるわけで。なので、私は普遍的という概念には関わらないし、美術・芸術が普遍的でなければならないという規範にも反対する。仮に、普遍的な表現を目指す=より多くの人に理解されるよう努力することだとしても、「そうでなければならない」とは思わない。美術・芸術に対してそういう制約を課す正当性が私には見当たらない。芸術家の倫理・規範として、そういう制約を課すべきだという人はたくさんいるけれど、なぜそれが必要なのか納得のいく説明はいまだ寡聞にして知らないぞ。単に「自分に分かんないものを見るとむかつく」というだけではないのか。それをもっともらしく言ってるだけじゃないのか。次に、東京/佐賀でなにか違いがあるのかどうか。誰もが美術・芸術を見ることになにかを期待していてかつ期待のあり方は一様ではない、という意味では、あんま変わらんのじゃないか。期待のバリエーションが多いか少ないかの違いはあるか。じゃあかなり違うか。なぞかけの「うまいこと言うた」みたいなのを期待している人もいれば、感覚的な快を期待している人もいるし、自分の趣味と合うものを期待している人もいるし、かっこよさを期待している人もいる。もっといろいろある。期待がダメだとは思わないけれど、期待に沿わないからといって怒るのは不当だろう。これこれの期待をして当然だと言える場合には怒ってもいいだろうけど。。期待が満たされる=快、満たされない=不快みたいに単純なことになっちゃうしなあ。期待の条件みたいなのが気になる。ルーマンの「規範」についての説明が関係あるような気がするが、もう寝るのでこのへんで終わる。ちょっと追記しておくと、「作品の展示」ということについて、自分の作品が「どう面白いか」のプレゼンテーションの場と考えるのは、息苦しい。また、そう考えてしまうことで、作品経験それ自体による、作品経験が面白くなる文脈の解説、というよく分からないことを要求することにもなる。できなくはないけど、それがしやすい形態・形式、しにくい形態・形式があるし、する必要なくすでに広く文脈が理解されている形態・形式もある。そういう違いを考慮しないのは、よくない。それが面白く感じられる条件が既に広く整っているもの、ある範囲内では整っているもの、そもそも整いにくいもの、と程度があるよねという。ともかく、つまるところ、「俺にはピンとこない」ということを、「みんなもピンとこない」「佐賀では誰もピンとこない」みたいに言い換えるのは不当な一般化だろうし、正直じゃない。いや、わかるけども。個人の主観で言うのは正当性や妥当性に欠けるということで、ムリヤリ一般化したりそれらしき理由をつけたりするんだろうけれど、なぜそれをしないといけないかというと、発言者としての自分を守るためでしかないわけで、正確なことを言おうとか相手を慮ってのことではない、場合がほとんどだと思う。自分の意見が主観であるがゆえに正当性や妥当性に欠けると判断されかねないことを受け止められないのは何故なのか、というのはとても気になるところだ。「客観」志向も同じことだと思う。やたら客観的に見たがったり、俯瞰して見たがったりする傾向=メタ志向?を見かけるし、自分にもあるけれど、これはなんでなのか。主観で言ったことにそんなのは主観だと反論されるのが嫌なんだろうか。もしそういう反論が来たらば、いや最初から主観なんだからあなたも主観で返せばいいと返答すればいいのではないかしらん。客観を偽装した主観がいちばんタチが悪い気がするが。誰にも文句を言われる筋合いはない!と自分の主観を言うわけだから。まあ、客観というか、自分の経験や思ったことを対象化してみるのは冷静に考えるためには必要かもしれない。けど、自分だけ安全地帯に行こうとする嫌なメタ志向になってしまうこともあって、そこらへんの境界が気になるところ。あと、芸術家・作家あるいはデザイナーなどはこうあるべき、みたいなことって、政治家や官僚や役人はこうあるべき、っていうのと似てる。「中国化する日本」を読んで思った。普通の人とは違うんだから、エリートなんだから、国民・市民のために働いてるんだから、ちゃんとしろ!みたいな感じがそっくりだし、これを言う方も言われる方も、相手は/自分は「普通の人とは違う」「エリート」であることを疑いもしてない感じもそっくり。