適菜収「バカを治す」、読み終わる。なんというか、バカを治すというより「バカにされない」ためのポジション取りのはなしのようにも思える。よくわからんことに口を出すなとか。著者は「バカになりたくない」と常々思っているとのことなので、自分の思う「こうなりたくない」を「大衆」なるものの行動に投影して「バカ」呼ばわりしているとも言える。藁人形論法??また、「民主主義」とか「(男女)平等」とか「参加」とかについて、疑問が投げかけられていて、そういう意見にはなかなか出会わないので(自分にはない視点あるいは意見だからだろう・・よくないことだ)、たいへん興味深かったが、薄い新書なのでさらっと流す程度で、もちっとこの方向の意見を知りたいが、同じ著者の他のものだともっと書いてあるのか、というか、著者の依拠する人たちのものに当たった方がマシのような気もする。ほいで、バカを批判するのではなく自分のなかの「バカ」を治しましょうと謳ってはいるけれど、著者の言いたいことは、バカは治らないからバカの自由にさせないような制度あるいは社会をつくろう、ということだと思われる。これは徹底的なエリート主義、とも言えないか、「バカはバカだし治らないから棲み分けよう、関わってはいけない。そしてその暴走を抑える制度設計が必要だ」という分離主義ともいうべき主張で、そのへんで支持を集めているのかもしれないなァと思いつつ。あとは「怒られたい」需要とか。怒られて反省することで、なんか自分が変わったような気がするというような。著者のいう「バカ」や、著者の依拠する「B層」という概念(郵政民営化政策に関する宣伝企画のために広告会社がつくったもの、らしい)は、統計的というか、概念としての人間像なので、そこいらへんの限界もありはするだろうけれど。それこそ個人的な印象・先入観・思いこみ・偏見による差別・区別・分断を後追いで、なんとなく一般的な、正しいものとして補強する・認める効果を持ってしまわないかとか。個別・特殊と一般・普遍がどっかで入れ変わっちゃうというか。いろいろと個人的に嫌な人がいるのは当たり前だけど、それを一般化して「嫌な人たち」という集団にしてしまうのは、なかなか微妙なところ。様々な前提や目的・価値観などが異なるために理解や共に行動することが難しい人(たち)に対して「あいつらとはもはや何も通じ合えないから、切り離して考えよう」っていうのは、広く見られる考え方ではある。ぶつかりあいに疲れて、こう思ってしまうのはわかるけども・・、なんだかもやっとする。私は左巻きの夢見がちな良い子ちゃん(だとこの著者からは揶揄されるであろう・・、自分でもそう思うが・・)なので、バカという不変の属性・性質をもつ人間がいるのではなくて、つまりバカな人間がいるのではなくて、人間は(全体から見れば)バカな振る舞いもしうるという立場をとるし、自分と違う価値観や行動原理を持つ人(たち)について、あいつ(ら)とおれ(ら)は違うと分離するより、工夫して協力できるところは協力しあった方が労力としても楽になるだろうし、無視するよりもケンカする方がマシな場合もあるかもしれないし(かなり面倒だが)、うーんまあたしかに現実的にどうかはなんともいえないが、自分と違う価値観や行動原理を持つ人(たち)に関わること自体もう面倒だという気分というか空気があるのもなんとなく感じるし、分かる。なんとか工夫しようと頑張っている人もたくさんいる。とはいえもちろん、分かりあえない相手と全部分かりあおうとしたり、なにもかも協力しあおうとする必要はまったくない。無理したらしんどいし面倒。1割でも分かりあえたり、ちょっとだけでも協力しあえたらとりあえずまあそれでよしだよなあと。いやまあいろいろ考えてみると、ちゃんとケンカ(というやりとりを)する人というのは本当に偉いな。たしかになかなかできないことだな。