昨日の日記の続きでいえば、「お互いの名前も属性もまったく知らないがおなじ場での顔見知り、というような関係」は、ツイッターでも起きている。掲示板とかも。いや、名前も属性もまったく知らないわけではないけれど、直接面識があるわけでもなく、やりとりがあるわけでもないが、日々つぶやきを見ているとなにやら親近感が蓄積されてくる。とはいえ、銭湯や飲み屋や電車ほど、多様性がないと書こうとしたが、実のところツイッター掲示板は言うに及ばず、銭湯であれ飲み屋であれ電車に乗り合わせた同士であれ、ある限定された範囲のなかでの多様性ではある。ツイッター掲示板は見る側が「検索」で探し当てたりするもので、その意味ではじめから見る側の趣味やら嗜好やら傾向によって選別されている。銭湯や飲み屋や電車も、その時その場にくる可能性のある人しか来ないわけで、そういう意味ではじめから選別されている。でも、これを言いだすとそもそも人々の行動ってあらかじめある程度は選別というか制限されてしまっているわけで、動機の条件とか物理的距離とか手段の有無とか。他にもいろいろあるだろう。というようなことをなぜ考えているかというと、なんらかの行動なり活動なりを始める・参加するためのコストをどうにかしてゼロに近づけられないもんかなと思っていて、これはけっこう難問な気がする。たとえば、社会運動でも地域活性化でもなんでもいいけど、「お祭り化」はとてもポピュラーな方法で、しかし「目的」を重視する人にとっては「お祭り」は邪道だろうし、そもそも「お祭り」が苦手な人もいる。かといって、硬い感じにしてしまうと、「目的」重視の人はいいけど、楽しくないのは嫌だという人は来ない。そもそも、なんらかの行動なり活動なりがなぜ必要なのかという層の方が圧倒的多数であろうと思う。たぶんこの層は、おそらく私もここに入るだろうからなんとなく分かるのだが、昨日の日記に引用したセイゴウの文章にあった「脱領域性」が関係あると思うんだけれども、ひとりの人間のなかにも様々な時には矛盾しあう意見や志向や趣味があるわけで、だからなのかは知らんけど、ある活動に参加するとその活動内容に即した自分しか現れないわけで、まあこれは当たり前なんだけれど、なにかこうそのことに息苦しさを感じるような。モジュールのように、というか、ミクシィとかの「コミュニティ」みたいに、複数の活動に同時に参加すれば解決することなんだけど、インターネット上ならいざしらず、実空間での実際の活動というと、時間も体力もお金も使うわけで、なかなか難しいのはたしか。社会運動でも地域活性化でもなんでもいいけど、なんらかの行動なり活動なりっていうのは、メンバーシップに基づき目的を共有するアソシエーション(結社)タイプが基本なので、やはりどうしてもなにかしらのかたちで拘束されてしまう。だとしたら、時間も体力もお金などの拘束が少なく、構成員も流動的だけれど、目的はすこしづつ進む、というモデルがあれば、解決するわな。構成員が個別の問題点だけを共有しておいて、それを各自勝手に解決を試みる動機が生まれたら、それでいいようにも思う。その際、山崎亮さんの「コミュニティデザイン」にあったのだが、「1人でできること、10人でできること、100人でできること、1000人でできること」っていうようになんらかの活動・行動の必要人数の整理ができてたら、やりやすいなあ、たしかに、と読んでて思った。集まるのも重要だけれど、集まるから損なわれるものもある。排他性が生まれたり、合意形成をうまくできなくてつまづいたり。