インターネット上には多様な意見がたくさんある、っていうのは、それはそうだけれども、そもそも「こういう意見がある」というのを知らなければその意見にアクセスできないというのはよく言われていることで、これはインターネットが実空間を伴わず「検索」が秩序の基礎になっているということなんじゃろか。自分自身のことを考えてみるに、そもそものインターネットの使い始めから、98年くらいからだと思うけれども、検索して発見した個人の音楽系サイトとかアート系サイトに出入りして、お互いに自分のサイトの掲示板経由で交流するという感じであったので、検索によって自分用にカスタマイズされたインターネットを見ていたということになるっぽい。巨大匿名掲示板を見ることもなかったし、まあ見たとしても自分の興味の範囲でしか見なかったと思うので同じことだとは思う。その後、2004年からこうしてはてなダイアリーを使い始めて、ミクシィは少しやって2006年にやめて、去年ツイッターをはじめて、いちおうフェイスブックも始めたが活用していないという状態。はてなでもミクシィでも多様な意見に触れることができたという実感はない。そもそも大して他の人と交流してないし。他人の意見を知るための交流のコストってとても高い気がする。ネット上では特に。個人的には実空間で会う方が楽だ。ツイッターは、知り合い以外をたくさんフォローすることによって、けっこう多様な意見を知ることができるなと思ったのだけれども、よくよく考えるとそうでもない。私がフォローしているのは、まず友人知人、ついで各種学者・研究者、そして誰だか分からないが誰かのリツイートで知った面白い人、最後になぜだかフォローしてくれた誰だか分からない人。いま571人をフォローしていて、そのなかで「知っている・会ったことのある人」リストに分類しているのが67人で、そうなると知らない人を504人フォローしていることになる。けれどもこのまえ気づいたのだが、たとえば嫌韓だとかネット右翼だとかそのように呼ばれるであろう(としか言えない。よく知らないから。。)人たちについてまったく知らないしその意見に触れたことすらない。別に積極的に避けるわけではないけれども、とはいえ積極的に知ろうと思っていないので消極的に避けていることになると思うけれど、なぜ嫌韓だとかネット右翼だとかそのように呼ばれるであろう人たちについてまったく知らないしその意見に触れたことすらないことに気づいたかというと、ツイッターでフォローしているある心理学者のおじさんが(この人も誰かのリツイートで知った。たいていの面白いと思う人は誰かのリツイートによって知る。リツイートツイッターのキモだと思う)、ネット右翼だとかそのように呼ばれるであろう人と論争、いや論争じゃないな、なんやろな、言い争いってこともないしな、延々とかみあわない会話をしていて(かつ、その会話を誰にでも見えるように非公式RTのかたちでやっていて)、この会話の相手の人は誰だろうと思ってみてみると、過去の発言やプロフィール欄の記述などが、今まで出会うことのないタイプの人であったので、興味深かった。この他にも、この心理学者のおじさんはいろんな人と延々と噛み合ない会話をしていて、かみあわない人と会話をするのがツイッターをやっている理由だとすら言っていたような気がするが、ともかくツイッターのよさはリツイートにあるけれど、「この意見に賛同」とか「これはいいよ」というリツイート以外の、公式あるいは非公式リツイートを用いた言い争いだとか論争だとかまったく噛み合ない会話のようなものの方が自分の知らない意見に触れる機会になってよいなと思う。当事者になるだけのコストはなかなかかけられないのが難点だが。そういう意味ではいまさらながら、巨大匿名掲示板には興味があるけれども、その世界というかノリというかルールにどういうふうに接したらいいのか分からず二の足を踏んでいる。。