本日は(昨日だけれども)ホワイトデーであるので、買い物をするべく梅田に出る。ディアモールにある女性服専門のお店に入ると当たり前だが店員も客も女性しかいない。ご所望のペイズリー柄のストールはすぐ見つかったが、同じ店というか同じブランドかしらな、の白いロンTはなかなか見つからず、そのあいだたいへんきまずい。仕方ないのでストールのみ購入。お包みしますか、とのことなので、お願いします。さて、ストールに加え料理本でもあげようかと思い、ブックファーストをうろついていると、コーヒー豆を買うことを思い出したので、三番街のバーンホーフに行く前に紀伊國屋へ。そしてバーンホーフへ向かう前にゴディバを発見したのでゴディバのホワイトデー限定みたいなチョコを買う。そしてまた紀伊國屋へ。その後、旭屋書店へ。その後、またブックファーストへ。基本の和食、みたいなやつを買う。ディアモールのストールを買ったお店に行く前にタワレコにも行った。たとえば、いまの私たちのこの状況でツイッターなりブログなりにおいて、東北地方太平洋沖地震に関して言及しないことはなかなか心理的にむずかしいわけなのだけれど(もちろん言及しないことは可能だが「あえて」言及しないという方向にしかならないし、そもそもそういうつもりでなくともそういう風に見られる状況にある)、それがなんでかというと、いま現在この地震のことは日本中で(そしてひょっとすると世界中で)共有するべき出来事であるとされていて(主にインターネットやテレビで。ラジオは聞いてないから知らない)、それに同意せざるをえないからで、いや実際そうだとは思うけれども、そういう空気があるということで、しかし自分の生活の範囲をはるかに超えてそういう空気を共有しているのはおそらく非当事者の私たちだけなのかしらな。やっぱり、自分が安全な場所にいることに対する引け目、自分が被災しなかった引け目、みたいなものがあって、その引け目からこの空気はできているんだろうか。いや、被災したみなさんを思っての気持ちもあるとは思うけれども、被災したみなさんのことを思ってやりきれない気持ちと、自分が安全で無事であることの引け目は、どうも区別がむずかしい気がする。そして、そういうやりきれない気持ちや引け目を解消するためには、「なにかする」しかない。それも自分が納得するような「なにか」。相手が、ではなく。なので、相手に対して十分であるかどうかとは無関係に、自分が納得するかどうかでその「なにか」は決まる。どうしてもいますぐ現地に行くのだ、もう向かうのだ、という人もいれば、ボランティア募集がかかればすぐ行くのだ、という人もいるだろうし、募金をするのだ、という人もいるだろうし、いまは祈るしかできない、という人もいるだろうし、自分のいる場所で自分の仕事をすることも回り回って復興の役に立つのだ、という人もいるだろう。これらの「なにをやるか」はそれぞれにまったく違うけれども、「なにかをやらないといけない」という責任感というか切迫感と、「なにかをやったかどうか」の自分の納得をどう生み出すか、という心の働きとしては共通しているように思われる。と考えると、やりきれない気持ちや引け目を善意に変換することなく、いちいちなにかしら理由を作り出して自分を納得させることもなく、淡々と何も言わず語らず自分の仕事をしている人がいちばんすごいんじゃないか、とか言いそうにもなるし誰か言っているだろうとも思われるが、それとて何も言わず語らずであるので、やりきれない気持ちや引け目を感じてもなお何も言わず淡々とやる、なのか、単にあまり気にしていないのか、判断がつかないので、こういうことを考えることにはなんにも意味がない。私とて、被災者の方々を思いやる気持ちや、いままさに被災地で「自分の仕事」をしている方々への感謝の気持ちは持っているのだけれど、その気持ちを表現することにどれだけの意味、というか被災者の方々や復興への実益、があるのか分からないので、気持ちの表現あるいはメッセージの表明みたいなものについては、どちらかといえばそれを発する側のメリットの方が大きいように思われるので、なんともいえない。ネット上で流通するのは文字や文章や静止画や映像や音なりのネットで流通が可能なものだけだし。ネットで気持ちを表現しても当事者には伝わらない可能性が高いであろうし、またそういう気持ちの表現がちゃんと伝わるかどうかは「どのように」伝えるかによるわけで言い換えればメッセージの伝達を「どのように演出するか」の問題になるわけで、なんかもうそういうことに心を砕くよりは(たとえば「みんなでメッセージを送ろう」系のもろもろとか)、具体的に直接なにかできることがない、あるいは考えつかないのであれば、心の片隅にとどめながら普通にやっていた方がいいんじゃないかしらな。ネットでなんかするっていうのも、メッセージを送ろう云々をのぞけば、専門的な知識なり知恵なりの提供だろうし。それ以外は思いつかない。あと残念ながら、チェーンメールともチェーンRTとも署名活動ともつかないものについてはちょっと判断できない。つまるところ、遠く(この場合、被災地)に送れるものしか送れない、ということで、お金、物資、言葉や映像やなんかのメディアによるメッセージ、くらいしか送れない。気持ちはそのまま送れない。なのでなんらかのメディアに定着=表現する必要があって、その表現の仕方によって気持ちが伝わる、というか、こちらがメディアにエンコードした気持ちを向こうがデコードできる、かどうかが決まる。あと、労働力は送れない。そもそも適切な種類の労働力でないと意味がない。そうなると、私には募金くらいしかないもんな。献血もあるけども。まあみんなで献血に押しかけてもしょうがないのかしらな。関西での節電は、ちょっと怪しいのかしらな。まあ、するにこしたことはないのでやるけど。普通にしていることも回り回れば復興に〜とかいうことも単に自分を納得させるためのロジックでしかないと割り切ったらいいのかしらな。うーん、とはいえやはり自分が納得できるかどうかがいちばん大きい問題だとは思うけれどもなんともな。いま書いているこれとて、「なんかやらねば」という気持ちってなんだろう、という「なんか」をやることで、自分の納得の材料になるわけだし。めんどくさい生き物だな、人間は。有事におけるヒーロー願望あるいはなんかせな強迫についての研究とかあるのかな、ありそうだ。たとえば、誰かの役に立ちたい、というのが人間の本性だと仮定するとして、ではその本性が発揮される要因はなにか。動機というか。利他的な動機か利己的な動機か。なんちゅうか、行為が利他的なのはありうると思うが、ある行為の動機までが利他的なのはしょうじき想像しにくい、私には。集団生活においては利他的な方が得だからそういう風に自らをプラグラムしてきたとかいうのをどこかで見た気がする。そのプログラムというか調教というか、にも適応しやすい人しにくい人がいるだろうなあ。そういえば、今日買ったスカーフの売上の1%が寄付されるらしいので、約25円寄付した。あれ、レディオヘッドの新しいのが出るのか、と思ったら、データではすでにリリースされている。