ここ最近、朝日新聞で「10代のデモ」や「寂聴さん、シールズ女性メンバーと語る」などの記事があって、同年代あるいは自分より若い人で、政治的な主張をする人(たち)や社会運動に関わる人(たち)に対するもやっとした感じはなんだろうと考えてみるに、「引け目」という言葉がしっくりくるのではないかと思う。自分は今まで投票を除けば、政治や社会問題に関して行動したこともなければ、自分なりの意見を持っているわけでもなく、個別の問題や論点について興味はあったりもするが、かといって、自分もなにかやらないと!自分なりの意見を持とう!とは思えなくて、そのことで「主張・活動・運動する彼ら」に対してなにか引け目を感じている。引け目は感じるけど、今のところ、応援や参加をしない代わりに邪魔もしないし、いろいろ考えていろいろ行動することはいいことだと思う、という無害な一般論しか意見がない。敵と味方をばきっと分けがちなのはなんだろうと気になるくらい。寒いのでニット帽をかぶっていたらおでこににきびができている。そういえば、この前ある人から「国会前デモとか官邸前デモとかに関してメディアの報道では、人がたくさんいる同じ写真がいつも使われていたり、若者がいっぱい参加しているとか盛り上がっているとか言うけれど、実際にデモに行ってみたという人によると、かつての活動家のおじさんたちの同窓会状態だったらしい、とネットで知った。メディアの情報には注意しないといけない」という話を聞いたけれど、それこそ「情報に注意しないといけない」よね・・、その情報が発信された意図に加え、その情報に引きつけられる自分の欲求に注意しないといけないよね・・と思いつつ、人間は自分にとって心地よい情報しか受け取らないですよねー、という話をしてみたが、いま思えば「人間は自分にとって心地よい情報しか受け取らない」に例外はない、つまり「あなた」も「わたし」も、という重要な部分は伝わっていたのかどうかも気になるし、陰謀論から健康法まで、人が「みんながこう思っている○○は、実は□□だった!」という構造(この場合、内容は構造ほど重要でないように見える)の情報に惹かれるのはなぜなのか、そして「実は□□」=自分なりの「真実」を追い求める過程で起こりがちな、他人の考えや認識との摩擦に対する、摩擦当事者双方の対応のまずさ(「あの人は真実に気がついていないから説得しないと」とか、「あの人には真実を教えても無駄だから放っておこう」とか、「あの人は最近へんなものにはまっているからあまり関わらないようにしよう」とか)はなんだろうというのも気になる。あと、もし他人との摩擦によって疎外感が生まれてしまうと、「真実を知るのは少数派の私たち」→「少数派の私たちが知っていることが真実」→「多数派が思っている○○の逆が全て真実」というループが発生しやすいんではなかろうか。そうでもないか。メジャーのアンチとしてのマイナー志向には、多かれ少なかれこういう傾向があるけども。