昨日の日記に書き忘れたことがひとつあって、梅棹忠夫さんの元の記述を当たってみんとほんとなんともいえないということをお断りした上で、さらに付け加えるなら、なにかしらの宗教についてそれを信じている人から「納得」を得ようというのは無理がある。うーん、いやでもたぶん梅棹忠夫さんはそんなこと分かりきってるので言うまでもないだろうし、ぜんぜん的外れだとは思うけれども・・。宗教あるいはなにかを信じることというのは、まず他人の言葉の論理で理解したあとに自分で納得するよりほかないのではないかと思う。そもそも納得する気があるのかないのか、というのもある。納得したくないのであれば、なぜそうなのか。とかいろいろ考える余地があっておもしろいと思います。あと、いわゆる「宗教」ではなくても、宗教的な、というのがダメならば、宗教の構造と似た思考のかたち、行動のかたち、っていうのは、もうみんな意識しないでそれをやるほどに、やってると思う、つねづね。ほいで、それは宗教的ななにかしらが意識しないほどに浸透した、とかいうのではなく、たんに我々のそういう思考のかたち、行為のかたちから、宗教が生まれた、ということなんだろなと、いまのところは思う。だから、そういう意味でちょっと前に「アートも宗教だよね」と言っていたのだけれど、こう言ってしまうと、「アートは新興宗教だよね」と言っているようにとられてしまったり、「そもそも宗教がアートの起源だ」と言われてしまったりするが、そういうことではなくて、アートという人間活動にも、宗教の構造とよく似た構造が見られるような気がするよね、というつもりだったっぽいことに、いま改めて気付いた。とかいっても、なにかを信じて生きる(生きるために信じる?)方法(のひとつ)、というごく単純なことなのだけれども・・・。