8:55の伊丹発佐賀行き。伊丹-佐賀便は来年初めになくなるらしい。だからかしらんけど、1日2便の時間が変わった。まえは11時くらいと16時くらい。いま7時すぎだが、地下鉄の駅はけっこう人がいる。みんな早くから仕事に行くのだな。仕事場が遠い、とかなのか。たんに早く行って自分の仕事を落ち着いてやりたいのか。昨日、よなさんから「宇宙消失」を借りる。あまり最近の日本のSFを読まないというのは前から聞いていて、表紙のイラストのせいで買いにくい・手に取りにくいのかも、とのこと。たしかにそうだ。伊藤計劃「ハーモニー」を帰りのバスで読もうかというとき、もちろんカバーは外した。インターネット上の何かへの文章の書き込みって「王様の耳はロバの耳」のようなことになりやすいのだろうけど、「王様の耳はロバの耳」のはなしって、誰も聞いてないと思ってこっそり言ったらみんなに聞こえてたということみたいなので、その意味でもぴったりだ。あと、ツイッターっていうのは口が悪くなるもんなのだろか。たんに愚痴が言いやすいだけなのか。ブログよりもさらに自分へのフィードバックが早いし強いのだとは思う。感情増幅装置。ツイッターもブログも、こっちが何を言おうが黙って聞いているし、話し手は相手の顔色を窺う必要もない。「誰か」という「誰でもない」存在に話しかけている。ということは、対面だと相手の顔色を窺ってしまって言えない・言わないことも言いがちになるという推測のもと、実際にどうかとは無関係に、ネット上の独り言は「本音」であるという扱い・見え方になるんだろな。ホワイティ梅田の串カツ屋さんがもう開きそうだ。カウンターにキャベツが並んでいた。早朝から串カツで一杯やって仕事に行くというのはなんか落語みたい。いや、江戸みたいというのか。ビッグマンのとこで妊婦が待ち合わせしている。いま豊中。次は蛍池。モノレールの蛍池の駅には市民ギャラリーのようなものがあって、いろんな集まりに集まった人たちの作品が展示されている。のを見て、これは「王様の耳はロバの耳」の反対なんじゃないかと思う。みんなに届くと思っているが、自分にしか届いていない。展示という形式上「万人に開かれている」だけであって、内容はとくにそういうわけじゃない。そう考えると、誰が見に来るか分からんままやっている展示とかイベントとかいうのは形式上「万人に開かれている」というお約束を信じているだけで、実際には誰に向けたもんでもなくまあ自分に向けたもんで、なんなら自分に向けたもんであるのを隠すために形式のお約束を信じているだけに見える。誰が見に来るのかわからんままやらざるをえないという事情もあるとは思う。しかしそれは「そういう」(ふうにどうしてもなってしまう)作り方をしているからでもある。作り方と見せ方・発表のやり方は繋がっている。あと、自分に向けた自分語りになるのもしょうがないのかもしれない。自分語りの要素を排除するのはむずかしい上、そもそもいま現在の「見る」立場、「見る」行為にも自分語りが含まれている気がする。それよりなんで自分語りをやる側が引け目を感じるのかが気になる。引け目を感じなかったら「発表」というものは形式上「万人に開かれている」なんて言い訳は必要ないはずだ。事実上、閉じているから、形式上、開かれていると言わないとやっていけない、っていうのは、なんかしらじらしい。