ウィリアム・ギブソンニューロマンサー」読了。面白いけど、なんというかな、これも日曜洋画劇場とかでハリウッド映画を見たような気分よりちょっと面白いくらい。発表当時、80年代中盤か、あれ80年代であってるかなと思い「80年代」で検索してみるとウィキペディアのページが出てきたが、西暦80年代のページだったので、私たち現代人は自分たちの時代しか見てないのだなと思った。1980年代を80年代というのはおかしいといえばおかしい。いや、「ニューロマンサー」かなり面白いとは思う。ぐいぐい先に進んでいく感じが気になるのだろう。むりやり引っ張って連れて行かれている感じというか。ガルシアマルケスの「百年の孤独」もそんな感じがある。ピンチョンの短編集「スローラーナー」のなかの「小雨」を寝る前に読む。なんというかな、このまえ見た「スカイクロラ」を思い出した。軍隊の日常、みたいなのが似てると思ったんだろうけど。おっ、と思ったら、新潮社で「トマス・ピンチョン全小説」っていうのが進んでいる。間宮陽介「市場社会の思想史 「自由」をどう解釈するか」は第二章「社会主義の思想」まで読んだ。「せんだいメディアテークコンセプトブック」はところによりざざっと流し読みだが、3章の2まで読んだ。どうでもいいけど、時々「アウェアネス」という単語の字間がめちゃくちゃ詰まっているのはなんだろう。9月1日にキリンジの新譜「ボイエンシー」。参加型の作品ってなんだか微妙なむずかしさというか、微妙なイヤーな感じがあって、なぜなら、観客の参加が作品の変数にしかならない場合が多くて、というか、そういう意図でもって設計されている場合が多いからで、とはいえ、観客の参加した結果がそのまま内容、という場合でも事情はあまり変わらないと思われる。結局のところ、観客は作者の掌の上なのだな。だから、参加型の作品に触れる場合、どうやったらこの作品が台無しになるかを考える。というような人が増えたらいいなと思う。作者の意図通りに体験し、作者の意図通りの感想を持ち、作者と一緒にいいよねーいいよねー、とか言っているのははっきりいって気持ち悪い。なんというかな、「参加型」ということは観客の介入を許す、ということだと思うのだけれど、それにも関わらず、ある範囲内での介入に限る、というのはどういうことなのだろう。介入範囲の決定と介入結果の制御こそが「作品」ということで、介入範囲の決定と介入結果の制御の枠組み=「作品」はいじるな、ということだと考えれば、まあこれは伝統的な「作品」の延長で、いや別に参加型の作品は「作品」の概念をどうこうしようというわけではないと思うので、これはこれで別にいいと思う。結局あれか、コミニュケーション、コミュニケーションの問題なのか。いやいやいや、たとえば「絵画」の鑑賞も参加型といえなくもない。ああしかし、めんどくさい話だ。芸術という現象をどこで起こっていると考えるかで変わるから。たとえば、絵画を描くという行為であるとか、その結果の「絵画」それ自体で、芸術という現象が起こっていると考えれば、「絵画」の鑑賞は参加型じゃない。逆に「絵画」を「見る」という行為のあいだに芸術という現象が起こっていると考えれば、「絵画」の鑑賞も参加型といえなくもない。この話がなぜめんどくさいかというと、ここから先は「なにを信じるか」の話にしかならない、か、ならない場合が多いから。「宗教と政治の話はするな!」とのこと。関係ないけど、関係なくもないけど、「聴かれることを前提にしない音楽」はありうるか。「聴かれる」を文字通りの意味で捉えるともちろんありうる。聴く必要がない、と考えると分かりやすい。あとで思ったけど、「24kbpsで圧縮した1mb分の無音のmp3」(http://www.voiceblog.jp/moumaku/1068685.html)とかそうだと思う。単なる「量」としての「無音」。「24kbpsで圧縮した1mb分」というルールがコップで、「無音」はコップの中を占める水みたいなもん。「聴かれることを前提にしない音楽」をつくろうという意図はないけど。でもなあ、聴く必要がない音楽は音楽ではないとも思う。どっちかというと概念アートの分野かもしれない。ということは、「聴かれることを前提にしない音楽」は、聴く必要がありながら、聴かれることを前提としない、ということになるのか。どういうこと?「必要」と「前提」が違うことを説明しないと、これは成り立たないなあ。いやまあ、もっと素朴に、「あえて」聴衆のことを意識せずに音楽的問題「のみ」に集中する、みたいなことなのかもしれないけど。それやったら別に、なんのおかしいところもおもしろみもない。いわゆるふつうの芸術家だ。