こんにちは
概ね頷けたのですが(と偉そうに聞こえたら申し訳ありません!)、かつて貸ギャラリーを運営し、またデザインにも手を染めていながら美術作家を名乗っているという半端な立場から複雑な胸中を吐露すると、やはり経済活動の中でものを創り、発表し、機会を与え与えられるということは実際はかなりの困難を伴います。
確かに理想に生きたいのですが、できうる中のベストを個人が行使するとき、そこには矛盾が伴います。
90年代さかんに行われた貸画廊バッシングに納得いかなかったのは、その個別のスタイルや内容とは別に、貸しか企画かで二分法的に判断されたことでした。
結果的に欧米のような一般にコレクション概念が浸透していない日本において、企画画廊が正解のような誤った知識が若手アーティストに広まり、グローバル経済の波やポストモダニティの全面化も伴って、現在のようなアート市場主義が生まれたことはあると思います。
納得いかないのは、流通しやすい商品/美術、つまり絵画などをギャラリストの嗜好によって判断する企画画廊については誰も物申せない状況が生まれたことで、結局ここでも経済的弱者が割をくう形になり、美術家がラジカルさを失うことになってしまっている。
もちろん、これもまた偏った見方であるでしょうし、企画画廊を否定する気は毛頭ないのですが、しかし、美術に対し音楽がまだしも個人の創作や発表の機会について寛容であることは確かで、ここはなんとかしたい、けれども個人が美術についてそうした流通に手を出すことは二重にリスキーなことは理解されたい気はします。
いずれにしても、貸し画廊が儲かったという話しはあまり聞いたことがなく、かといって儲けを考えないことは、商売としては有り得ないし社会的には存続できない。にも関わらず倫理的にもバッシングされる中、企画画廊という形で商業美術を堂々と展開する画廊は成功し、アートが搾取されるという問題はもっと議論されていい気はします。

こんばんは、TATTAKAさん、コメントありがとうございます。まず最初にお伝えしておこうと思うことがありまして、いままでも今回と同様のテーマについて何回か書いてきたのですが、自分のことながら、自分のいっていることに釈然としないというか、論点というか着眼点がズレているような気がしています。論理として単純に突き詰めていけば、自分も含め誰もなにもするな!ってことになりかねなくて、そんなこと誰も私も望んでいませんし、創作・制作という行為は人間になくてはならないものだと考えています。また、量ではなく質を!ということを無条件に信じる気にもなれません。質もまた相対的なものです。どうやったら、寛容になれるか、という、逆にいえば、傲慢なスタンスがおかしいような気もします。寛容になる必要などないようにも思います。そして、そのスタンスから要請される、対象とする事象をマクロに考えるやり方もまたどうもおかしいかもしれないのと、個別の違和感を一般化する過程でもなんだかズレていっているような気がします。そういう、なんだか釈然としない感じが、書いているうちに修正されるかなと思いつつ、やっているのですが、いまのところ、その様子はありません。 TATTAKAさんのおっしゃるとおり、『できうる中のベストを個人が行使するとき、そこには矛盾が伴う』のは確かで、私がたまに展示を見に行ったりするところはほとんど例外なく、デザインがメインの仕事としてあり、そこに付属してギャラリー・ブックカフェ・カフェなどを運営しておられます。iTohen、beyer、PANTALOON、またFLOATの米子匡司君もそんな感じだと思います。iTohenは貸しもやっていて、beyerはブックショップ内での展示で貸しはなし、PANTALOONも貸しはなし、FLOATは持込企画を共同でやることはありますが単純な貸しはなし、です。『貸ギャラリーを運営し、またデザインにも手を染めていながら美術作家を名乗っている』というTATTAKAさんの活動は、こういう、なにかだけに専門・特化、専属するのではない複属的なやりかたのさきがけみたいな感じだったのでしょうか。ああ、いますこしはっきりしてきました。私にとっても、貸し/企画、というのは問題ではなくて、貸しギャラリーでもライブハウスでも自費出版でも、表現機会を売る側、買う側が、商業的な意味での「売り手と買い手」になってしまうと、経済としては循環しても、表現活動としては不毛な事態に陥るんじゃないかな、と思っているようです。以前にもこんなことを書いていましたが→http://d.hatena.ne.jp/k11/20090122

物理的なスペースをまず持っていて、そこに「発表の場」という文脈もついている、っていうのはそれだけで価値があるというか資本を持っているともいえるけれど、だからといって、その「場所と文脈」をそれを持たない誰かに貸してお金をもらおう、っていうのは簡単すぎて芸がない。1週間、または一晩、わたくしどものスペースを〜〜万で貸してあげます。展示方法やら機材やら相談には乗りますが、規格外の(面倒臭い)ことはできません。搬入搬出DMはご勝手にどうぞ。というそれこそ「貸しっぱなし」のやり方は逆に借りる方の「やりっぱなし」をも助長するような。そして貸しっぱなし/やりっぱなしばかりになると、貸し手にも借り手にもマイナスな気がするけどどうなんだろう。お互いにやりとりをしながら共同で展示なりイベントなりをつくっていく、っていうのがあらゆる意味で大変だから、ごちゃごちゃ言わんから金だけ払ってくれ、もしくは、金は払うからごちゃごちゃ言わんと場所だけ貸してくれ、っていうふうになるんだろうか。オーナーからしてみれば、こいつ(ら)のやってることにはなんら魅力を感じないけれど、お金がもらえるんならいいか、という気持ちなのか。借りる方からしてみれば、お金さえ払えばオーナーからいろいろ言われることもなく好きなようにやれるから払っとくか、という気持ちなのか。

私の理想でいえば、貸し手は借り手への表現機会の提供、表現(借り手のやりたいこと)のサポートをするだけでなく、その表現内容自体にも積極的に関わっていくような、いわばコラボレ−ターとして振舞った方が、面白くなるんじゃないかということで、貸し/企画、という二分法ではなく、「貸しっぱなし/借りっぱなし」を問題にしたいのかもしれません。これは私自身が借りたときの反省でもありますし、貸し手を近くで見る機会があり、そのときに思ったことでもあります。そういう文脈で考えると、参加費やレンタル料といったあからさまに金銭的な名目ではなく、チケットノルマという集客的な名目で、レンタル料の支払い=表現機会提供のリスク担保、をおこなうライブハウスの制度は、お金のやりとりという側面がオブラートにつつまれているぶん、貸し手と借り手が一緒になってイベントをつくる、という気分になりそうです。しかし、そういう共通の認識・暗黙の了解にもとづく気分のもと、発表/運営が行われているからといって、それがコラボレートかどうかはまた別の問題でもあります。なんというか、音楽イベントというものが、経済的な問題を「集客」の問題だけに押し付けて解決しようとしているように見えるのが気になるのかもしれません。また、はたして自分の「やろうとしていること」は求められているのか、自分の「やろうとしていること」は誰に求められているか、自分の「やろうとしていること」は誰にどのような仕方で役に立つか、というようなことは、経済循環のなかで表現するのであれば、絶対に考えなければいけないところだと思うのですが、「集客」を「お客さんからの承認」だと解釈することで、うやむやにされているのが、現状かと思われます。もちろん、騙してでも連れて来て、まずは見てもらうことが重要なのですが、そこはゴールではなくてスタートなのであって、そこからどういうものが作品や行為とお客さんのあいだで生まれるのかが問題だ、というようなことを山本握微さんがちょっと前に言っていて、ほほうと思いました。ごく当たり前のことなのかもしれませんが、ともかく、騙してでも連れて来るつもりだが、鑑賞体験においては、作者と観客がベタベタした関係を持つことなく、ドライに作品や行為と向き合ってもらえることを志向する、このスタンスは、なんだか新鮮というか、たしかにそういうふうにもできるかもなと思いました。いままでは、ドライに作品や行為と向き合ってもらうには、自発的な集客がベストである、というふうに思っていたのです(だから、誰も来ない)。そうでもないのかもしれません。とにかく、作品・行為を介した作者/観客間の承認のしあいという(作者からの一方的な)コミュニケーションの問題に陥ることなく、作品・行為それ自体と観客の向かい合いをできるだけベストな方向に持っていきたい、という気持ちが、ノルマ制度にありがちな友人・知人へのイベント来場「勧誘」への違和感として表れるのだろうなと思いました。もちろん「勧誘」であっても、作品・行為それ自体と観客の幸福な出会いは、起きうるわけですが。そのへんのバランスをどうとっていくかが、今後の考えるべきことのような気がします。「貸画廊バッシング」なんてあったんですね。。まったく知りませんでした。ほんとに、貸し/企画の二分法ではなくて、表現の流通におけるオルタナティブなやりかたを、どういうふうに、現実の経済に結び付けていくかが、リスキーではありますが、面白そうなところですね。そういう流れで見てみると、beyerとPANTALOONとFLOATは、生業と表現(機会提供、という表現)を厳密に分けていて、iTohenはそのあいだ、折衷ですね。折衷でもバランスさえよければ、経済的にも循環し、面白くもできるのかなとは思います。iTohenは2週間で¥105,000(税込) のレンタル料で、どれが貸しでどれが企画か分からないくらいに、トータルのディレクションが入っています。それぞれの展示のフライヤーデザインをデザイン部門の方でやって統一感を出したり、内容的にも統一感があったり。もちろん借り手の方で自分の表現はiTohenに合うかどうか考えて申し込んでいるのだとは思いますが。逆に、神戸アートビレッジセンターでは、貸しと企画のギャップが激しくて、だからなのだと思いますが、スケジュールなどに貸館/自主企画と表記して分かるようにしてあります。これも経済的な矛盾からそうならざるをえないことというか、iTohenのようにディレクションを入れていく余裕がない、ということなのかもしれません。なんというか、もうこのへんは、「ブランディング」とかいう問題になっている感じがしますね。いや、というより、表現機会の提供もまた表現である、ということでしょうか。搾取といえば、弱者が弱者から搾取する、しかも無意識に、ということが起きているような気がします。それこそ、「貸しっぱなし/借りっぱなし」とか。。最後に、TATTAKAさんのはてなダイアリーデッキで、こだまする静寂。」の2009-06-09「中間的なもの」より、引用させていただいて、終わりにします。そういうことなのだと、思いました。

我々は批評の外部に留まらなくてはならない

批評は外部に留まる者にのみ到来する

あらゆるウエルメイドな作品にたいした価値はない

ウエルメイドであることがその作品の価値を決定してしまうからだ

資本の外部にある作品にも資本の恩恵は可能であるが

資本の内部にある作品には批評の光は届きにくい

ゆえにそれは、作品とはならないだろう

作家は作品によって規定されるが

作家の存在は肉体によって規定される

ゆえに、「作品」は作家身体によって制作される

作家は作品を制作することによってその身体を確認するだろう

作家は作品の交換によって得た利益ではなく、それを制作した身体によってのみそれを確認する

身体は脳によって知覚される

脳は知覚されない



我々は外部に立ち、資本を眺め、その恩恵を受ける事を身体的に望み、その成果としての作品によって自らの存在論的価値を知るだろう