せんだいメディアテークコンセプトブック」は昨日の風呂上りに読了。「常に工事中」なのだ、っていうのがおもしろい。この本自体、3回も改版されている。ピンチョンの短編集「スローラーナー」のなかの「低地」を読む。ピンチョン読んでて思うのだけれど、作者についての固定的なイメージがない状態で読むっていうのはとても面白い。先がどうなるか読めない、っていうのと違って、どういう先になるかの期待がほぼない状態で読むのが面白い。人間ってたいていの場合、なにかしらの期待に回収するかたちで物事を受け取っているものなんだけれど、そういう回路なり循環なりのちょっとだけ外で行われる、期待通りでも期待外れでもない、無期待状態が面白い。いや、無期待とはいいすぎで、期待があやふやとでもいうか・・。カントがこういうこと言ってた気がする・・。カントが言ってたのは「無期待」の方だったと思うけど。岩波文庫の「判断力批判」は段ボールにつめちゃったから調べられない。ああ、カントは「関心」という言葉を使っていたな。ミヒャエル・エンデヨーゼフ・ボイス「芸術と政治をめぐる対話」はなかなか面白い。エンデとボイスが噛み合わずに、発言者を示す「ボイス」っていう文字に(かっとなって)という注釈がついたりするのが面白い。しかし引越し準備は進まない。みんなの動向を把握するためだけにでも、ツイッター始めようかと思う。情報共有ツールなんだろうなと思う。見るか見ないかは別にして。見ない気もするな。前にみつ君とはなしたけど、あるなにかについてのシーンというか、盛り上がり、みたいなものって、みんなで情報を共有してないと成り立たないわけで、私たちがよく聴いていた2000年前後の電子音楽のシーンって、ヘッズが出してた雑誌、フェーダーとかで情報共有をして、盛り上がっていたなと思う。で、いまはどうなのかというと、盛り上がりの基盤になる情報共有というと、雑誌じゃなくてツイッターなのかもしれないと思うけれど、ツイッター見ているわけじゃないから、違うかもしれない。たぶん合ってるとは思う。コレ見たアレ聞いた!おっ、オレも見よう!ワタシも聞こう!みたいなことになっているんじゃないかと。といっても、雑誌の「盛り上がり」を生み出す機能がそのままツイッターに置き換わってしまったとも思えなくて、雑誌とツイッターの違いはといえば、雑誌は間接的でツイッターは直接的、雑誌は非人称的でツイッターは人称的だ。人称ってなんやねんと思って調べてみたけど、使い方として間違っているかもしれない。じゃあどう言おう。雑誌はヒトっぽくなくてツイッターはヒトっぽい、ってことか。つまるところ、ツイッターはいつものあの問題、コニュミケーション、コミュニケーションか、のスキルがどうとかいう問題があるっていうことになって、たいそうめんどくさい。コミュニケーションがめんどくさいのではなく、コミュニケーションスキルの問題がどうとかいうのがめんどくさい。個々のスキルがどうとかいうよりも、「ノリ」重視のコミュニケーションが問題なんだと思うけど。もっといえば、ノラない、ノレない人に非寛容すぎるというのが問題。あ、でもツイッターはノラない、ノレない人に非寛容ってことはなくて、だからといって寛容ってわけでもなく、単に構造的にノラない、ノレない人が見えないというか、簡単に離脱できたり避けて通ったりできるってだけか。言い換えれば、システムとして排除してるともいえるのかもしれないが。でもなあ、コミニュケーション、コミュニケーションか、のスキルがどうとかいう問題って、気にしない、で済むよな。重視しすぎやろ、みんな、プレッシャーを与える人も与えられる人も、コケニュミーション、コミュニケーションか。うーん、人と人が関わるときのクッションとしての儀礼がなくなったから、とかあるのかしら。最初は儀礼的にお互い失礼のないように段階を経てだんだん信頼関係をつくる、みたいなの。形式がなくていきなり内容っていうのはハードル高いよな。あとやっぱりあれか、コミケニューション、コミュニケーションか、の問題って、自我がどうとかいうのも関係あるのかな。ありそうだけど。場とか空気とかノリっていうのって、そこにいる自我同士の公共自我みたいなもんで、ひとつの自我みたいに振舞うところがある。そこで、なんというか、全体としての公共自我と、部分としての個別自我の距離感とかバランスがむずかしいみたいなことなのか?オレはオレである!みんなと同じではない!みたいな抵抗があったりするのか?ニコニコ動画春風亭小朝の落語があったので聞いてみる。たしかに、うまいというか声がいいしなんか志ん朝みたい。江戸っ子。ovalの新譜の試し聞きをヘッズのサイトにて。そういえば、youtubeにある何年か前の、2年前か、のベオグラードでのライブ映像ですでに分かりやすいキックとスネアの音が入っていた。試聴、なんかドラムのパターンが分かりやすくポストロックっぽいのはなんなんだろう。ピンコンピンコンって音に、ツタツド、ドッ、ド、ツタツド、ドッ、ドド、みたいなドラム。こういうバンドいそう。なんで電子音と生ドラム、みたいな音楽にしたんだろう。なんでって言われても困るだろうけど。なんというかな、オヴァルジョン・マッケンタイアとジョン・ヘーンドンのコラボだ、って言われたら、ああたしかにそうね、分かりやすく重なったのね、と思う感じ。とはいえ、出たら、もう一回お店で試聴してみよう。セブンにポカリを買いに行く。1000mlのアクエリアスが199円、900mlのポカリスウェットが166円、どちらが安いか。2リットルのアクエリアスを買う。299円くらいか。日経エンタテインメントという雑誌が目に止まったので立ち読み。「インタビュー 加藤ミリヤ “ミリヤー”を生んだロジカルな表現者の実像」と「特集 最新版・芸能人になる方法」の「アーティスト」のページ。もちろんミュージシャンのこと。非レーベル系のオーディションがいいとかなんとか。青田買いがどうとか。すごいなあ。みんな注目されてチヤホヤされたいんだなあ、注目されてチヤホヤされないうらみつらみを溜め込む人もいるんだろうなあ。加藤ミリヤのインタビューは、エモーショナルな歌詞とロジカルな創作方法、とのこと。あんま真面目に読んでないのもあるのか、なにがどうロジカルなのかはよく分からず。適当に歌詞を書くことはしない、とのこと。砂原良徳のアルバムが出るっぽい。だんだん引越し準備が進む。Scuba「Triangulation」をyoutubeで聴く。全曲あるっぽい。そして本人があげてるっぽい。けっこういい。感傷的だけど。腰が痛い。机の上を整理していると、名詞、名刺か、らしきものがたくさん出てきて、いまでも付き合いのある人がこのなかに何人いるか。むしろ、名刺をもらってない人というか、名刺のやりとりじゃないところからスタートした人との付き合いばかりのような気がする。このまえの東京で、売り場に立っているときに「ヘッドハンティング」しに来たという、ニュースキンのインデペンデントなんちゃらという肩書きのお兄さんの名刺も置いてある。肩書き確認。インディペンデントインターナショナルディストリビューター。あー、腰いたい。ラックの下を片付けていたら、2003年、国立国際美術館での高柳恵里近作展のチラシと小冊子が出てきた。これはうれしい。どこ行ったかなとすこし前に思ったので。高柳恵里の作品は詩的なところがなくてよい。かといって身も蓋もないわけではなく、ふつうなんだな。こういうのの方がよっぽど詩的だとは思う。いわゆる詩的なのは多少なりとも劇的なので、ふつうじゃない。ふつうじゃないものには想像力がいる。高柳恵里の作品を見るに当たっては想像力はいらん気がする。集中力だとか集中を抜く力だとか視界のはじっこのものをぼんやり見るとか、そういうもんで事足りるんじゃないかしら。「感性」とか「感覚」とか「感受性」とは言わない。ややこしいし、分かりにくいので。想像力っていうことばや概念は、なんというか、ごちゃごちゃといろんなものに巻き込まれていてややこしいので、いまのところ、プラスかマイナスかでいうと、マイナスの方が大きい気がしなくもない。小冊子の文章を読む。おっ、分かったぞ。言語化できることは造型には不向きなのだ!当たり前か。