熱も完全にひいて、喉と左耳と頭の左後ろがまだ少し痛いですが、あとなぜか首の左後ろがこって痛いですが(喉の腫れと関係あるような気がしますが。喉の左側が腫れていたので)、ほぼ治ったようです。kugyoさん、サキ緒とモカ子さん、みつ君、神谷さん、みなさま、ありがとうございました。いろいろな人に迷惑をかけたり心配をかけたりお世話してもらったりして、申し訳ないと思いつつ感謝もしています。一時期は高熱に慣れてしまって平熱状態を忘れてしまったりしたのですが、入院もせず治ってよかったです。季節の変わり目、みなさまもお気をつけください。ちなみに昨日書いたことで書き逃していたというか書き損じたことがあって、『世間と断絶した状態、孤独で絶望しているという条件のなかで会話しようというのが美術家の美術作品の魅力である。』というときに、『会話しようとする』のは誰か。美術家である。けれども実際に会話をするのは美術家の美術作品である。美術作品が美術家に成り代わって世間や他人と会話するわけだ。そこまではまあ異論はない。でもひっかかるのは、美術家と世間・他人であれば双方とも人間であるわけで(世間というとちょっと違うけど。世間は人間じゃない)、そこでのコミュニケーションを「会話」と呼ぶのは差し支えない。しかし、美術作品と世間・他人(美術家にとっての)とのコミュニケーションを「会話」と呼べるのか。そもそも「コミュニケーション」と呼べるのか。観客は美術作品からなにか受け取ったように思えるかもしれない。でもおそらく自分の持っていないものを受け取ることはない。つまり、観客は美術作品からなにかを受け取るのではなく、自分のなかの未知の部分が刺激されるということではないかと。そして観客は鑑賞や解釈を通じて自分なりの価値や意味をつくる以外に美術作品に対してできることはない。そういう状態を「会話」や「コミュニケーション」と呼べるのだろうか。いつか誰かが比喩として「会話」とか「コミュニケーション」とか言ったばっかりにそれに縛られてしまっているのではなかろうか。観客は美術作品の価値をつくる/美術作品は観客にはたらきかける、というのはたしかに相互作用といえばそうだけれども、それだからといって「会話」とまでいうとちょっとニュアンスが変わってくるような。作品のはたらきかけによってこちらが変わることはあるけれど、こちらから作品に具体的にはたらきかけることはできない。こういう非対称的な関係に「会話」や「コミュニケーション」なんてないような。結局は「会話」しているつもり、「コミュニケーション」しているつもり、でしかない。そういうふうに考えることに何のメリットがあるのかというと、そんな特にないかもしれない。見る側の能動性が要求される、くらい?作品を体験の次元で捉えるとか?今日になって気付いたのだけれど、webちくま(http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/)で岡田利規さんが「フリータイム」という連載をしていて、「フリータイム」を語るという体の小説なのか、「フリータイム」についてのエッセイなのかは不明だけれど、第一回を読んだ。そこに、あなたたちのやっていることは演劇でも芝居でもなくパフォーマンスだ、と言う観客のはなしが出ていて、これはすごく分かるので面白いというか、私のやっていることにしたって、文脈上というか表現経路的にはたぶんまだ音楽なのだけれど、でもやっぱり「演奏」ではなく「パフォーマンス」と言われるしそっちの方が納得しやすいらしいので、仕方なく私も自分の行為を「パフォーマンス」と呼んでいるわけで、そのへんのことはまえにも書いたけれど見つけられなかった。たしかに私のやっていることは音楽というより自作自演の芝居のようなところがあって、それは多少意識している。まあとにかく音楽家や音楽愛好家の人にとって私の行為は「演奏」ではなく「パフォーマンス」であるようで、自然と言い分けてくるので面白い。こだわりがあるのだ、たぶん。別に私の方にはとくにこだわりはないので「パフォーマンス」でも「演奏」でもなんでもいいのだけれど、「パフォーマンス」って言ったときに「アート」寄りになってしまうのはよくない。「演奏」って言って「音楽」寄りになるのもよくないが、「アート」寄りになるのもまたよくない。どちらか一方になるのはよくない。とにかくどっか寄りになるのはよくない。よくないというか必要ない、まったく。分類し、形式に引き寄せて考えるのは、理解を他人任せにすることだ。たしかに絵画には絵画の見方があるだろうし、演劇には演劇の見方がある。でも形式(誰にでもアクセス可能な)・ジャンル・フレームとしての分類の理解のあとには、自分なりの価値・意味付けがあって、それもおろそかにしちゃいけない。というか、実のところ私自身は形式・ジャンル・フレームを通じた作品理解は学問でもない限り、やる必要はないと思うし、学問としての厳密さや歴史を踏まえた上でないとできないものだと思う。それを中途半端にやるのはよくない。だから私はいまのところわざと形式・ジャンル・フレームを通じた作品理解が無意味になるようにしているのだし、それをおおざっぱに「アート」とか「音楽」とかに分類する必要もまったくない。してもいいけど楽しくないですよ、楽しくないのはあなたの責任ですよ、という。今日もゆらりと自宅療養で、外に出たのはコンビニに行ったときだけ。立読みした。夕飯はきょうだい3人で昨日のカレー。レンコンとかしいたけを入れて、コンブダシで作ってみた。姉ちゃんとふたりで作ってみた。雨が降っているからか非常に寒い。おっ、今日は中継見なかったけど阪神勝ったのだろうか。といっても、いままでそんな話題が一切なかったことからもお分かりのように、私は阪神ファンでもなんでもなくそんなに野球ファンでもなく通りすがりに見てみたら面白かったというだけで、いちいち野球の結果で一喜一憂したりはしないけれど、そこまで熱中したら楽しそうだなとは思う。あ、勝ってた。広島に5−3で。5−3ってなんとなく良い試合っぽいな。鳥谷は男前だ。おっ、保坂和志さんの「小説の〜」シリーズ完結篇「小説、世界の奏でる音楽」が出るっぽいぞ。「小説の自由」、「小説の誕生」は本当に面白いのでおすすめです。なんならこの人の小説より面白いくらい。装丁はなんだか正直しょうもないですが。ことばを読むのは考えることで、ことばを書くのも考えることだ、ということが分かりました。あと、関西だけなのかもしれないけれど、レディオヘッドのライブのCMの映像が「クリープ」のライブ映像っていうのはどうなんだろうか。これだけいろいろやってきて、まだ「クリープ」っていうのはさすがにおかしいんじゃないのか。