イスのうえであぐらをかいていた脚のうち、左足を下ろしたらぐにっとやわらかいものに当たって、居候の猫が。足元のストーブが目当てらしい。よなさんが「作品」ってことばの使い方がおかしい、とのこと。名詞じゃなくて、動詞じゃないのか。いま「作品」ということばを使うとき、たとえば、「これ、僕の作品なんです」というとき、なんといったらいいか、これで指されているモノをどう見て欲しいかの態度の指定までも含まれている。つまり「作品です」というとき「作品」として見て欲しいわけで、この意味での「作品」ということばは、芸術の価値体系のなかにあるモノ、を指すものとして使われている。いっぽう字義通りにみてみると、品を作る=作品、なわけで、なんらかのモノ(品)をつくること一般、ともいえるわけで、この意味においては、必ずしも芸術の価値体系とは関係しない。だから、なんだ。わりとそういう二重の意味というか、ダブルスタンダードみたいな使い方をされているようにも思える。「アート」とか「作品」とか、やっぱりどうも悪い意味で曖昧なのか。sndの新譜「Atavism」(=隔世遺伝、先祖返り)は2月25日にraster-notonから出るらしい。なんだか意味深なタイトルだな。sndだけかもしれない、いまだに出たら必ず買うっていう人たちは。fenneszもそうだったけど。あ、でもトータスは出たら買うな、とりあえず。□□□も。隈研吾「負ける建築」をたいへん面白く読む。右足の甲を枕にして居候の猫は寝っころがっている。私の右足の甲。昨日は電気ストーブに近づきすぎたらしく、おしりのあたりの毛が焦げて茶色になっている。さっき、1階の台所兼リビングにいたとき、イスにあぐらをかいて座っているとやってきてひざに飛び乗り、左右のふくらはぎの交差するところで無防備に寝ていたので、これが野生なら(敵に)殺されているぞ!いつでも殺せるんだぞ!と説教するも、聞く耳をもたない。ネコ科の動物は天敵がいないのかもしれない。隈研吾「負ける建築」をたいへん面白く読む。村野藤吾という建築家についての文章が面白い。いまwikipediaの「村野藤吾」の項をみていたら、梅田換気塔、というのがこの人の設計であるらしく、梅田の、換気塔、、ひょっとしてアレか??と思って画像検索してみたら、やっぱりアレで、そねざきけいさつと阪急百貨店と阪神百貨店のあいだの三角州みたいなところに建っている。おとといくらいに見た。し、しょっちゅう見るけれど、なんじゃこりゃ、という感じで見ていたし、まあいまもそうだ。場所的にモニュメントといえばモニュメントなんだろうけど、地味といえば地味。隈研吾「負ける建築」のなかの、村野藤吾という建築家についての文章から引用しようと思うけれど、とりあえずまとめっぽいところだけ。しかしここだけだと書き手の意図は十分には伝わらない。当然のことながら。

モダニズムの唱えた理念というものの正体は、結局のところ、建築は商品を超えた公的な存在だという宣言に他ならない。それに対して、建築は商品に他ならず、それを超えたメタレベルになど立ちようがないということを、村野は冷徹に認識していたのである。そして商品は命がけの跳躍を絶えず要請されている。その認識に従って、彼は商品を誰よりも軽やかにつややかにデザインしたし、既成のあらゆる建築的手法に対して絶えず批判的であり、彼の商品は緊張感を失うことがなかったのである。

「建築」を「芸術」にかえても読めるような気がする。とりあえず、私が関わる機会の多い音楽に関してしかいえないけれども、ライブという一回性のパフォーマンスにおいても、CDという大量複製品においても、それらは明らかに商品という体裁をとりながらも(お金をとる、ということ)、提供する側はあまり商品であるという意識はない。便宜的に商品として流通はしているけれども、商品を超えた「作品」である、という共通の意識というか雰囲気がある。いっぽう受容(消費というかどうか微妙なとこだ・・)する側はさすがに商品馴れ・消費馴れしているので、もうすこし現実的な態度をとる。シビアにあくまでも商品として、つまり、主観的な効用によって、評価する。この、提供する側と受容(消費)する側の態度の違いが、制作−受容という一連のサイクルでおこなわれる「芸術」という行為・現象を貧しくしている、元凶のようにも思えるけどうやろ。いや、どちらかが本来の姿で、どちらかが間違っている、というのではなくて、そのどっちでもいいが、どっちかに偏ることがおかしい。提供する側=制作者はあまりに作品の論理に偏るし、受容(消費)する側=受容者・消費者はあまりに商品の論理に偏る。猫の居候はあおむけで両手を内側に曲げて寝ている。おなかが出ているよ。昨日よなさんとちょっと話しているときに、絵画とライブの売買の違いって、見てから買うか、見るまえに買うか、だよね、ということが出た。絵画作品を買うとき、よっぽどのことがない限り(作家に特注しているとか?)ふつうは見てから買うだろう。でも、音楽のライブの場合、入場料としてお金を払うわけで、見るまえに買ってしまっている。入場料、すなわち「見る権利」として。美術館などに作品を買う目的なしに見に行く場合はこちらか。映画も一緒か。音楽の場合、CDは試聴できるからいいとしても、ライブにはこの問題がつきまとう。お金とモノの交換じゃない、お金とコトの交換であるライブとかパフォーマンスとかダンスとか演劇とかの一回性の表現は入場料・鑑賞料として、当の表現を見るまえにお金を払うわけで、これはどうしても鑑賞にある程度の影響を与えてしまうだろう。たとえば1500円のライブだったら、見ているあいだ意識はしなくても、受容者の価値付け(価値判断)は「−1500円(1500円の損失)」からスタートするだろう。量(貨幣)と質(芸術・作品)を混同するな!ともいえるけれど、それはそれで偏っているし、それかhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20080825みたいなこともいえる。とはいえ、いまのこの世界は基本的にお金を払えばなにかは返ってくる仕組みになっているので(というよりそういうものとして前提されているから??)、1500円払ったライブに「自分の価値観」での1500円分を期待するのは、当たり前だ(でも自分の価値観でいう1500円の価値って??)。そのような、現実の経済行為における人間の心理を踏まえたうえで、ライブやCDの値段がつけられているかというと、はなはだ怪しいのが現状だと思う。いや、でも値付けはほんとうに難しいけども。といっても、たとえば、現実の経済行為における人間の心理が「芸術鑑賞」に入ってくるのを避けたいのであれば、一律0円にするのが楽チンで簡単な方法。山本握微さんみたいに、演劇を見てくれたら100円あげます、っていうのも面白いし。ライブに来てくれたら往復の交通費をお払いします、とか。正直なところ、私自身はまだこの問題に面白い答えを出せないので、0円でいいと思っている。というより、自分で値段を決めないといけないことはもうしないと思う。自分でライブを企画する、とか、自分でつくったなにかを有料で売るとか。隈研吾「負ける建築」の「制度と唯物論村野藤吾」より。村野がアダム・スミスでもケインズでもマネタリズムでもなくマルクスの「資本論」をよみふけっていた、という記述に続く箇所。

 「商品は命がけの跳躍をする」とマルクスは言っている。この言葉こそがマルクスと村野とを接続する。アダム・スミスらの古典派経済学者たちにとって、商品は決して跳躍しないし、跳躍する必要もない存在である。なぜなら商品の値段は「見えざる手」によって自動的に決められ、その値段に従って商品はなんの緊張感もないまま取引きされていくのである。しかし、マルクスは交換というもの、市場というものが、それほど単純ではないということを知っていた。交換とは基本的に、異なる価値体系、価値基準を持つ両者のあいだでなされるものであり、それゆえにこそ交換の必然性、必要性はある。しかし当然のこと、異なる価値体系をまたがって交換される商品は、相手に引きとられる保証がないままに生産される。すなわち商品はそこで命がけの跳躍をするとマルクスは説いたのである。村野にとっては建築も建築家も、命がけの跳躍をするひとつの商品であった。中心的な仕事、公共建築をなりわいとする建築家は、このような認識を持つ必要はない。自分の作り出した商品はまちがいなく自動的に引きとられ、使用されていくからである、彼らの商品は必然的に弛緩する。一方村野の商品には跳躍する場に立たされる者だけが持つ、あでやかな媚と、自らの身を切り刻むほどの緊張感とが同居している。そしてこのふたつは近代性と同義なのである。
 なぜなら、「商品」という存在が本質的にはらんでいる危機とは、複数の価値体系の併存に起因する危機であり、近代性とは同型の危機の別称に他ならないからである。

「見えざる手」っていうのは個人が利己的に振舞った結果が全体の利益に繋がる、という市場の機能のことですね。最初になんでもいいからなにかひとつの商品の値段を(誰かが!)決めれば、相対的に全ての商品の値段が決まるし、それぞれが高すぎたり低すぎたりすれば、だんだん調整されていく、という。現実には取引する主体のあいだの情報が非対称だったり、なんやかんやで、そんなことは無理だ、ということになっているようです。この理解でよいのか怪しいところなので、気になったら自分で調べてください。さっきかいた音楽のはなしでいえば、市場の機能というよりも、たんに慣習でしかない部分が大きいと思われます。でもそういうふうに形式化しているからこそ、音楽の受容において経済的感覚を度外視できる、という幻想が生まれるのかもしれないし、現に幻想は幻想としてローカルな世界においては機能しているのかもしれない。だから、別にそれはそれでいいのかもしれない。こう見ていくと芸術の商品化っていうのは、面白い事態で、商品化した(せざるをえない)作品・芸術行為と、交換を前提としない(個人的な・趣味の)作品・芸術行為、とに二分してしまっている。言い換えれば、「芸術としての芸術」と「制作としての芸術」。商品化=交換=命がけの跳躍(商品としての)をまるごと拒む芸術行為は、必然的に「制作としての芸術」になる。「つくるための芸術」。そして、たぶん、純粋な芸術を志向する人々はこちらに移ってくるんじゃないかなと思う。それが悪いとは思わないし、商品化が悪いとも思わないけど、なんで偏るんだろ、というか、ひとつの方向に純粋化しようとするのか、という。うーん、でもこのふたつの流れはお互いに中途半端に依存しあって寄生しあって、維持していくんだろうなあ。それってどうなんだろうなあ。でもいま考えていることって完全に、「個別の作品」を無視してるから、どうなんだろうなあ。びみょうだな。行き詰まってて面白くないな。おっと、でも商品=交換=命がけの跳躍ってわけでもない。商品は交換されるからこそ命がけの跳躍をするのであって、商品だから命がけの跳躍をするわけではない。むしろ交換されることに命がけの跳躍は宿るのであって、となれば、なにも作品を商品化しなくとも交換は可能だし、そうなれば商品でない作品の(商品的な)命がけの跳躍もありうるだろう。あとは、作品の論理と商品の論理、っていうふうに二分できると思うこと自体がおかしいのだろう。もはや分けて考えてもなんの意味もない。前衛=観客への挑戦、大衆への挑戦、既成概念への挑戦、って捉え方も、もはやなんの意味もない。それぞれに「自分」に対して挑戦するだけで、他人から挑戦されているわけではないし、他人へ挑戦するのが芸術でもない。あと、現代美術に対して、分からないよ!って言って怒ってもなんの意味もない。分かろうとしないから、とか、分かるための知識が足りないから、とかいうよりまえに、分からないものに接する余裕がないだけで、余裕がないのはしょうがない。愛用のbradyのショルダーバッグがいい加減ぼろいので、黒なのにまだらの茶色みたいになってて、カバンが欲しいのだけれど、どうしようか。赤いショルダーなどよいなと思っているけれど、とりあえずネットにて散策。猫の居候がカーペットで爪を研ぐ。なかなかなあ、bradyの同じ型の色違いでもいいけど、それもなあ。フライターグは可愛いけどちょっと臭いしな。。ああ、でもいま持ってるものすごく簡素なつくりの紙袋みたいなやつは臭いとれたな。どうでもいいけど、マンフレッドさんがフライターグのバッグ持ってたな。