ブックオフの通販で、ヴォルフガング・ウルリヒ「芸術とむきあう方法―低く架ける」、仙田満「子どもとあそび―環境建築家の眼」、秋元馨「現代建築のコンテクスチュアリズム入門 環境の中の建築/環境をつくる建築」、岩田規久男「経済学を学ぶ」、1500円以上お買い上げのお客様は送料無料なので、本の代金と代引き手数料を合わせて3150円。検索してみると、わりといろいろあるので、ふつうの古本屋さんに行くのが面倒にもなるけれど、古本屋さんの店舗での未知の本との偶然の出会いも捨てがたい。本日、天神橋筋商店街の古本屋で発見した、エイモス・ラポポート 「文化・建築・環境デザイン」はなかなか面白そう。ひとまず、佐々木正人アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか」を300円で。昨日くらいから、黄砂なのか檜なのか、終わったと思っていた花粉症の症状。宮澤淳一マクルーハンの光景 メディア論がみえる」は薄いこともあってさらっと読了。みすず書房の「理想の教室」シリーズ。たしかこのシリーズは、吉永良正「『パンセ』数学的思考」も持っているけれど、すこし読んで寝かせている。講義の体裁になっていて、最初にマクルーハンの「外心の呵責」があり、第1講はその精読「マクルーハン精読」。第2講は「メッセージとメディア」、第3講は「ジョン・レノン地球村」。第3講で、マクルーハンとグールド、フラー、ケージ、シェ―ファーの関係を、さらっとでも知れてよかった。マクルーハンとケージは「同時多発性」で繋がるけれど、「ハプニング」についても、すこし言及がある。宮澤淳一マクルーハンの光景 メディア論がみえる」、第3講「ジョン・レノン地球村」、「同時多発性とハプニング」より

マクルーハンの「同時多発性」とは、電子メディアによって即時に情報が伝達され、連鎖的にものごとが起こる状況も含みますが、その根本は、キュビズムの絵画や、互いに無関係な記事がひしめく新聞紙面の喩えで再三説明したように、複数のものごとが同時に出現する、という構図です。別の見方をすれば、それは偶然性の世界です。何の脈絡もなくものごとがあちこちで起こったり、何かが現われ、人々はそこに関与させられる。ジョン・ケージが一九五〇年代以降探求してきたのは、そうした偶然性を音楽に持ち込むこと、つまり、偶然に起こるすべてを受け入れることでした。

五九年、ケージにも師事した芸術家アラン・カプロ―(一九二七−二〇〇六)は、個展「六つの部分からなる十八のハプニング」をニューヨークのルーベン画廊で行います。カーテンで六つに区切られた画廊の内部には絵や事物が配置されていたり、ライトが点滅していたりする。そして個々の部屋で指定された行為がなされる。それ全体が「ハプニング」であり、鑑賞者はそうした「環境」を体験すると同時に「ハプニング」の一部となる。これが一回性、非再現性を特徴としたパフォーマンスによる芸術表現「ハプニング」の始まりでした。そこでは、自発的で、起こるべくして起こる何か、が重視されます。

ここを読んで、ああ、ということは、私がやっていることはほとんど、というか、まんま「ハプニング」なのかもな、と思って、うすうす気付いてはいたけれど、そんなに突き詰めて考えていなかった。とはいえ、意図した「同時多発性」や意図した「自発的で、起こるべくして起こる何か」には価値を見出せなくて、たとえば、新聞紙面はあらゆる事件を「日付」でまとめているから「同時多発的」なのであって、それはあくまで「まとめ方」による結果で、そこから逆算して素朴に「同時多発性」を意図したものなんて「喩え話」の域を出ない。なにより、「起こるべくして起こる何か」に出会いましょう!あなたは何に出会いましたか?なんてパフォーマンスの何が面白いのか。押し付けがましいし、うざったいだけだ。それを意図した「作者」はみんなが「起こるべくして起こる何か」に出会うのを満足気に見守るのか。神の目線で。というのもあって、「ワークショップ」という「参加型」の形式に興味はありつつも、ちょっと距離を置いていたりする。ワークショップってたぶん時間をかけて文脈のすりあわせをするものだと思うけれど、やることによっては、お互いに文脈のすりあわせもなく突発的に始まってしまう方が効果的のような気がする。場所や状況の文脈と人間の相互作用によるゆるい「参加型」というか。人間(作者)と人間(観客)が関わるんじゃなくて、まずは人間とモノ・コトが関わるような。梅田の紀伊国屋書店で、塚原史荒川修作の軌跡と奇跡」というのが出ているのを発見して、立読み。面白そう。荒川修作さんの作品は、国立国際美術館の常設展かなんかで、でかいキャンバスにカラフルなアルファベットとか線とか並んでいるやつしか見たことなく、意味というか含まれている概念にまではアクセスできなかったけれど、たんなる見た目としては、よい感じ、くらいに思っていて、気にはなっていて、あとは、奈義町現代美術館の荒川修作+マドリン・ギンズ『「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築的身体≫』は見た、というか、体験した、というべきか。この美術館、なにげに磯崎新さんの建築。みょうな場所にあって、駅からバスに乗らないと行けないし、でも本数少ないし、なかなか行くのがたいへん。津山で一泊したし。といってもここ目当てで行ったのではなくて、てきとうに電車旅行していたら、美術館があるっぽいので行ってみた、というくらいの。仙田満「子どもとあそび―環境建築家の眼」をぱらっとめくってみると、奇しくも「原っぱ」のはなしから。岩田規久男「経済学を学ぶ」はめちゃくちゃ初心者向けで、そろそろざっくりとおおきく掴んどきたいと思い読み始めてみる。さすがに分かりやすい気がする。交換と特化(分業)の利益、交換と市場(いちば)と貨幣、商人と市場(しじょう)の発生、とか。いまでは当たり前になってしまったことをなぞりなおしてみるのは、面白い。ずっとまえに山本握微さんとはなしていて出てきた、「分業」のご利益は仕事を細切れにすることで雇用のハードルを下げ、かつ、雇用を増やすことだ、というのを思い出す。ときどき。でもそれはそれで、副作用もある。「働くこと」が人生の中心にくるようになったとき、具体的にいえば「働いている」時間がいちばん長くなるとき、やっぱりただ働くだけじゃなくて、どう働くかも問題になってくるけれど、このまえNHKで見たバングラデシュの縫製工場の女性工員さんたちは、仕事の内容(この仕事が好きかどうか、やりがいがあるかどうか、とか)よりも、自分で働いて「自立」している!ということに喜びを見出しているようだった。ちょっと新鮮だった。なんとなく日本は「自立」が当たり前すぎて忘れられているような気がしなくもない。「自立」そのものにはもう喜びを見出せなくなっている、というか。そういえば、「ハプニング」を、こう、なんか、びっくりさせること、みたいに狭くとらえてみてしまうと、もちろんつまらなくなりがちなわけで、びっくりさせること=感覚的、というふうにとらえるとそうなりがちで、さらにその前提にあるのは「感覚」的な楽しみもしくはエンターテインメントへの反発があったりもする。でもその逆の「理性」的なものもわりあい架空の自己にひきこもりがちなので、いちがいにはなんともいえない。「感覚」的な楽しみになにか問題があるとすれば、自分の「趣味」フィードバックによる自己の先細りなのかなと思うけれど、それは別に「感覚」的な楽しみだけの問題ではないというか(つまり「感覚」的な楽しみの本質ではない)、たとえば「概念」的な思考そのものを「感覚的」に楽しむ、「理性」を感覚的に愛でる、ということももちろんありうるわけで、こういうの誰か言っていたような。「ライフハック」ってことばをごくまれに見かけるのだけれど、これなんのことだろうと思ってググってみたら、検索候補みたいなのに「ライフハック(笑)」っていうのが出てきて、ああ「(笑)」がついてしまうような感じのものかととりあえずは理解した。あとwikipediaによると、GTD(Getting Things Done)=「ナレッジワーカー(知識労働者ないし頭脳労働)の仕事術」。『「仕事」(ビジネスと置き換えても良い)』ってくだりがとてもよい。仕事、ビジネスと置き換えても良い。