作家とかアーティストとかデザイナーとかアートディレクターとか建築家とかクリエイターとかミュージシャンとか先生とか呼ばれ(また自称す)る人々は、なぜ「黒」の服が好きなのか?この問いは、去年の12月の初めに帰省したとき、うちの親父とはなしたことでもある。たまたま親父がデザインの現場の何月号やったかそのときの最新号だろうけど、を買ってきていて、そこには様々な分野の若手デザイナーが登場していて、海外で仕事をするには?みたいなやつだったのだけれど、そこに登場しているデザイナーの方々がなんとなくみんな「黒」っぽい服装なので、いままで疑問に思っていたということもあるし親父に聞いてみたのだけれど、そこから何をはなしたかはあまり覚えていない。スタンドカラーのシャツも多い、ということを親父は言っていて、スタンドカラーはベテランの人に確かに多い。いやいや、とはいえ「黒」が「それ」っぽすぎてダサい、といいたいわけではなく(思ってなくはないけど)、「黒」が「それ」っぽすぎてダサい、とかいうのもまた面倒臭い、ということで、しかしだからこそ「あえて」「黒」っぽい服装をする、なんてのも面倒臭いわけで、このはなしは落ちるのか落ちないのか、とにかく、「服装」によっても自分は影響されるし(自己暗示みたいなもんで)、服装は「私をこう見てください」という他者(と自己)に向けての表明でもある。

2008年9月14日(日)
時間:開場:10:30 開演:11:00 終了:18:00頃
料金:2000円
会場:FLOAT
演目(上演順)
Manfred Werder 「2007 1」(選曲 竹内光輝)
直嶋岳史 「Objective 4/5」
平間貴大 「素数素数番の奇数番目と偶数番目の秒数の単音とその間の連続音 -3019」
小田寛一郎 「時はゆく / Time Passes」


演奏:
直嶋岳史(electronics, tone chime)
平間貴大(rhythm machine)
竹内光輝(flute, melodica, claves)
小田寛一郎(various objects)


http://www8.ocn.ne.jp/~fhs/0914_nhto.htm

「シミュレーショニズム」と関係あるかないかはどうにもいまの私には判断がつきかねるけれど、9月14日の演奏会の平間君の作品について。書くまえについさいきん気付いたのは、9月14日のイベントって、上演する作品名もあらかじめ発表してるし、演目と演奏者の表記もあるしで、いわゆるクラシックというより現代音楽の演奏会みたいになっている、ということで、このことにあまり注意を払っていなかったことにいまさら愕然とする。内容はぜんぜんそうじゃないけど、「情報」としての見え方をそういうふうに持っていってしまったのはなぜなのか。といっても答えは簡単で、私以外の3人がそれぞれに志向や方法は違えど「作曲」をしている、ということで、だから当たり前のこととして、割と「かたい」感じに情報の見え方を整理したのだろうし、私自身もその土俵にいちおう乗っている(振り?)。しかしこの身振りが、現代音楽の延長線上にいる、との自覚からなのか、単なる現代音楽のイメージの借用なのかは、なんとも判断がつきにくい、正直なところ。私自身がつきにくいのだから、情報のみに触れる人はもっとそうだと思う。とりあえず私自身はこの時かぎりの身振りだし、さすがに自分が現代音楽の延長線上にいるとは思えないし(良くも悪くも、、)、現代音楽イメージの借用にメリットを感じないしで、関係ないね!と逃げるとして、とりあえず、みつ君は現代音楽というよりケージの延長線上にいる、との自覚を前提にポジティブに表現をおこなっている、と思う。平間君と直嶋君はどうなのだろう。尋ねたことがないので分からんな。。平間君はたぶん借用、というより、冒涜か。直嶋君は「結果的」に現代音楽の延長線上に出てしまった、という感じなのかな、どうやろか。そんな細かいこと気にしてないかもしれない。まあとにかく、いまさら9月14日のイベントの情報の見え方が気になってくる。服装とまったく同じで、自分がどう「見えるか」は意外に大問題。どういう装いをするか、というのは、どう見てほしいか、どう見るべきか、の提示でもある。そのあたり作品の内容に対する「タイトル」の働きとも近い。ほいで、平間君の「素数素数番の奇数番目と偶数番目の秒数の単音とその間の連続音 -3019」は曲名だけ見る限りは、一見なんのことやらよく分からないが、字義通り、「素数素数番の奇数番目」と「素数素数番の偶数番目」による時間の分割構造の指定があり、指定されたポイントのすべてで単音を鳴らし、ポイントとポイントのあいだに連続音(持続音ではないことに注意!)を鳴らす、というだけのこと。なので譜面としては、単純に、0'03" - 0'05" 0'11" - 0'17" という感じで指定してあるので、別にややこしいことはない。ややこしいところがあるとすれば、「素数素数番の奇数番目」と「素数素数番の偶数番目」ってなに?ってことだろうけれど、これもまあ単純に字義通りといえば字義通りなので、つまり、素数を「素数番目」だけ選ぶというやり方でフィルターにかけさらに「奇数番目」、「偶数番目」だけ選ぶというやり方でフィルターにかけたもの。で、最後に「秒」に変換。あと、元になる「3019」という素数は最終的に60分前後になるように選んであるはず。曲の長さは「50'19"」で、そのあいだにいくつかポイントがある。みんなと平間君とのメールのやりとりで、4人演奏者がいるから2人を単音係、残りの2人を連続音係に、ということで、みつ君と平間君が単音、私と直嶋君が連続音に決定。私はなんとなく連続音担当の方がやることがありそうな気がしたので、連続音にしてみた。メールでやりとりしつつ、なにができるか考えていて、曲の長さが「50'19"」で、連続音のon/offがある、という条件のもとなにができるか考えていて、平間君がメールで連続音は連続していさえすればなんでもよい、その都度CDを再生するのでもよい、というようなことを書いていたことにヒントを得て、トータルタイム「50'19"」のCDをかけて、ボリュームのon/offで連続音のon/offをする、ということを思いつく。つまり、平間君の曲を上演する50'19"のあいだ、まったく同じ長さのCDを流して、ボリュームをon/offすることで、連続音のあり/なしをおこなう。たとえば、0'03" - 0'05"という最初の指示でいえば、その2秒のあいだだけボリュームをonにするので入っている音楽が聞こえる。でも指示以外のところでは、ボリュームがoffなので音楽は聞こえない。聞こえないけれど、CDは再生されているので音楽自体は進んでいる。言い換えると、CDの音楽をまだらに(平間君の指定した分割構造に従って)再生する、ということ。で、トータルタイム「50'19"」のCDを探すべく、「total time 50'19"」でググってみると、・山口由子「しあわせのみつけかた」・Rage「Perfect Man」・平原綾香「From To」の3点を発見。山口由子さんはなんかよく分からないけどシンガーソングライターで、Rageはメタル、平原綾香さんのこのアルバムはカバー集。TRUE LOVEとか桜坂とかいとしのエリーとか。この3点でどれが面白いか、さらにバラエティがあるかといえば、明らかに平原さんのCDなわけで(rageはたぶんずっと同じような調子だと思われるし、山口由子さんは手に入りにくく、誰もが知っているわけじゃない)、平原綾香さんの歌う「いとしのエリー」などの超有名曲が平間君の楽曲内に入り込む、ないしは、共存する、というややこしいといえばややこしい事態。たぶん平間君なら大丈夫だろうと思いつつ、平間曲のなかでこういうことはアリなのかどうか訊いてみると、快諾を得られた。これはかなり楽しそうで、嬉しい。とりあえず、中古で買おうかとも思ったけれど、六甲道のツタヤで借りる。もちろん本番まで聴かない。とりあえず収録曲は以下。amazonより転載。

01. 晩夏(ひとりの季節) (作詞・作曲:荒井由実 編曲:松任谷正隆)
02. 言葉にできない (作詞・作曲:小田和正 編曲:佐橋佳幸)
03. いとしのエリー (作詞・作曲:桑田佳祐 編曲:ゴンチチ, 菅谷昌弘)
04. いのちの名前 (作詞:覚和歌子 作曲・編曲:久石譲)
05. Missing (作詞・作曲:久保田利伸 編曲:亀田誠治)
06. 秋桜 (作詞・作曲:さだまさし 編曲:倉田信雄)
07. TRUE LOVE (作詞・作曲:藤井フミヤ 編曲:佐橋佳幸)
08. 桜坂 (作詞・作曲:福山雅治 編曲:吉川忠英)
09. なごり雪 (作詞・作曲:伊勢正三 編曲:沢田完)
10. 翼をください (作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦 編曲:亀田誠治)
11. あなたに (作詞:松井五郎 作曲:玉置浩二 編曲:島健)

on/offの切り替えをどのようにやるか当日まで考えていて、結局、パソコン用かなんかのポータブルスピーカーとCDウォークマンを持っていって、ポータブルスピーカーの電源on/offのスイッチングでやることにする。きちんとCDが頭から鳴るように、00'00"で一時停止。していてもこのCDウォークマンは時間が経つと解除してしまうので厄介。当日のリハーサルで、直嶋君はシンセとリズムボックスを足して2で割ったようなやつからポーっというサイン波のような連続音、みつ君は「火の用心〜」のアレっぽいclavesでカツンという単音、平間君はリズムマシンでカッというリムショットの単音、ということに決定。音の種類はひとつで変化はなし、という指示で、じゃあCDはどうなのか、という問題が生じるが、ひとつのCD=ひとつの音、ということになっている。ぜんたいのボリュームもそうだけど、直嶋君とCDの音のボリュームのバランスをやけに丁寧に調整する平間君。いったいどうしたのか。本番前にもちょっと調整する。そして、本番。といっても音についてはあまり書くことはない。というのも、平間君の指定した時間の分割構造に従って、それぞれ単音、連続音を出していくだけで、しかも私以外の3人の音には一切変化がない。カツンとカッという単音にポーという連続音とCDから流れる平原さんの曲が挟まれる。単音と単音のあいだ、連続音が鳴っているあいだ、は最短で2秒、最長で2分弱くらいか。平間君の指定した時間の分割構造は割と最初のあたりが忙しくて、途中はぜんぜん音を出さなくてよかったりする。なので、まるまる1曲分聴かれなかった平原さんの曲もあるような。「秋桜」とか、聴いた覚えがない。かなり正統派というかフツウのポップミュージックなので、流れているとけっこう聴いてしまう、それゆえ、発音していない時が、より「なにもない」感じがする。それにしても、お客さんは、平間君の曲を聴いているのか、平原さんの歌を聴いているのか、過去の超有名曲を聴いているのか・・・。そのすべてなのか。「TRUE LOVE」に続いて「桜坂」っていうのがなんかすごい。90年代。平原さんには悪いと思いつつ、笑いそうになる。「TRUE LOVE」のあとすこし発音しない時が続いて、その次のポイントで、えいやっとポータブルスピーカーのスイッチを入れるとちょうど「愛と知っていたのに〜」 というサビのところで、この奇跡はなんだ?!と思いつつ笑いを堪える。これはもうしょうがない。笑うよ、ふつう。意味が分からんもん。成り行き上、というか、トータルタイムで同じというだけで平原さんによるカバーアルバムなので、別に平原さんを冒涜する気はなくて、とはいえ結果的にいろんなものを冒涜しているような気もする。そんなこんなで、事故もなく無事終了。任務終了というか業務終了、というか。楽譜にひたすら従っているだけだから。曲が始まって50分19秒経過し、曲が終わるとき、CDウォークマンもキュルッという音をさせて回転停止した。おっとそういや、FLOATの隣の倉庫スペースを借りている工務店かなんかの人たちが平間君の曲をやっている最中に現場から帰ってきて、ガチャン!!ガチーン!と大きな音を立てて資材を片付けていたため、発音のタイミングを間違えないことだけに集中している私たち4人を惑わせた。メールでいろいろやりとりしているときに、平間君がいっていたことがあって、この曲は「数の操作」(ここでは「素数」という概念を用いた)でポイント(時間の分割構造)を作った時点で終わっていて、必ずしも「演奏」を前提としない、ということで、曲のコンセプトが楽譜をつくった時点で完結する、というのはよく分かる。ということは、「数」の操作を経て生じた時間の分割構造を「愛でる」ことが目的なのではなく、「数」の操作を経てこんな構造が生じたよ、という生成の神秘を「愛でる」のが目的なのでもなく、おそらくは、作曲という行為が、「数」の操作と記譜のみで成り立ってしまう、ということについて考えたいのだと思う(そしてこのことはちょっとまえに書いた(http://d.hatena.ne.jp/k11/20081230)、作品の擬似根拠としての外部ルールの問題を通じて、作品の根拠・原因・源泉なるものについての思考がほっとくと無限退行してしまうという問題に直結する)。けれども、今回そのような、記譜→楽譜の時点で完結してしまう曲、つまり、演奏を前提としないような曲をわざわざ演奏するわけで、そのような場合の面白さがどこにあるかというとき、「あえて」ムリヤリ演奏してしまうことのバカバカしさに求めたり、そうでなければ、演奏による楽譜の再認に求めたりすることになる。でもこれじゃもったいない、というか、コンセプトの表現体である楽譜に沿ってなされる演奏(再表現)が、楽譜の再認になるだけならまだしも、それ以下になってしまうのだけは避けたい。「録音物」が「録音」っていうテクノロジーならではのもので、そのテクノロジーでしかできないことがあるのと同じように、「作曲」っていうのは、紙(あるいはなんらかの支持体)+記号(文字)による「楽譜」っていうテクノロジーならではのもので、こまかくいえば「楽譜」という指示形式でしかできないことがある。そして、「楽譜」によってなされた「指示」そのものと、その指示に基づいてなされた「演奏」はまったくの別物になってしまうほかない。「楽譜」は「指示」を「指示」のまま留めることができる。これは記号(文字)、つまりことばの性質による。ことばは目の前にないものですら指示することができる。このようなことばの性質を基礎に、音楽的な指示を、その純粋性を損なわないまま留めようとして生み出されたのが、楽譜(紙)と音符(記号)である(のかな?)。ややこしくなってきたな、つまるところ、作曲行為においては「楽譜」をつくることが作曲者の表現であり、それを演奏するとなると、演奏は解釈・再表現であり、さらに楽譜によって具象化された概念の「再」具象化でもあるため、作曲者の表現=記譜(1次具象化 - 抽象的)×演奏者の表現=演奏(2次具象化 - 具象的)、という2重の構造をどうしても持ってしまう。そして、作曲者の表現の純粋性は失われる。で、作曲者の表現、というか、曲の概念の純粋性・抽象性を保ちたいのであれば、記譜という1次表現(1次具象化)で完結させておいて、演奏という2次表現(2次具象化)はしない方がよいのはいうまでもないし、そもそも演奏を前提につくられていない楽曲は演奏されるべきではない。ここでわざわざ「べき」を使ったのは、演奏を前提につくられていない楽曲の演奏(再表現)が、楽譜の再認になるならまだしも、もし具象化の結果が、楽譜によって表現されているものと全くの無関係になってしまった場合、作曲者と演奏者と観客の完全な断絶が生じてしまわないか、という恐れと、観客に対する倫理観による。ちなみに平間君は去年の9月から、楽譜というか指示だけの曲をネットにアップし続けるという活動を始めた。http://d.hatena.ne.jp/hiramatic/ これは作曲行為のひとつの極でもある。とはいえ、とはいえですよ、無理を承知で、やってみる価値が実のところ「演奏」にはあるわけで、それは楽曲を演奏=具象化する際のノイズをポジティブに捉えることにある。そしてもうひとつ、さきほどの「断絶」をポジティブに転用する術もある!たぶん。さきは長いのでゆっくりいく。とりあえず後者の可能性はあとにする。というかいま書いている文章内ではもう触れない。で、前者。今回、私が意識していたのはこのことで、演奏=具象化のやり方によっては、楽曲の相貌じたいががらっと変わってしまうのではないかと。もっと豊かというか過剰な感じにできるのではないかと。もちろん、作曲者の1次表現=記譜(楽譜)に現されたものの純粋性が失われることを前提のうえだけれど。木下和重さんが記譜で止めず演奏をやり続ける理由はここにあると思う。抽象的な概念を、具象化するとき、つまり、現実に落とし込むとき、その結果できてくるモノやコトは、具象化の作用によって、より正確にいえば、結果できたモノやコトの概念が、さらに元々の概念に接合されることで(フィードバック)、最初にあった概念を変化させ、より豊かにすることがある。これは具象化の前後で元々の概念がまったく別物になってしまうという性質による。具象化されてしまった概念'はもはや元の概念ではありえないし、具象化されてしまったがゆえに獲得したその質料(かたち)に影響されたまったく別の概念をも持つはずであるから。抽象的な概念をことば以上に純粋に具象化することは不可能だということでもある。質料(かたち)を持つからには、どうしてもことば以上にズレるしブレる。でも、具象化のやり方によっては、そのズレやブレがもともとの概念に作用し、新たなものを生み出すこともある。もちろんことばによる具象化にもこの作用はある。自分のことばはそのことばを操る自分自身を変化させることがある。ということは、概念→記譜(楽譜)という1次具象化の時点でもこのような作用は起きるはず。次はみつ君のかな。それにしても、演奏を前提につくられていない楽曲の演奏(再表現)によって引き起こされる、作曲者・演奏者・観客、それぞれの断絶が、ポジティブに転用・活用できる気がする!という直観は、うれしい。とにかく。