なんだか分からないが、落語家のタマゴになっていて、おそらく柳家喬太郎さんの弟子になっていて、しかし活動としてはなんかせまっくるしいところでサッカーをしていた。寝坊してしまい、もう始まった、次の部屋に案内した、みたいなメールが弟子仲間から来ていてガックリしていたのだが、起きたら落語家のタマゴではなかったので安心した。「20世紀SF6 1990年代 遺伝子戦争」のなかの、ポール・J・マコーリイ「遺伝子戦争」、 ウイリアム・ブラウニング・スペンサー「真夜中をダウンロード」を読む。前者は短くて、アイデアを楽しむ感じ。後者はなんか攻殻機動隊っぽい。逆なんだろうけど。事件を追っていく感じと、現実と仮想空間の関係とか。おっ、「真夜中をダウンロード」が95年で、攻殻機動隊のマンガが89年だ。でもまあどっちがどっちというより、こういうアイデアはたくさんあったのだろう。おもしろい。稲葉振一郎社会学入門“多元化する時代”をどう捉えるか」もすこし進んでいる。フィクションとの付き合い方っていうのは、いろいろあると思うのだけれど、と書いてみただけでいろいろあるのかどうかは分からんのだけれど、フィクションの方から自分の普段を見てみることで、自分の普段というのはただひとつの普段ではない、とか思ったり、あとは、フィクションに「ひたる」ことで気晴らしをしたり欲求を満たしたり、というのが主な付き合い方かと思う。そのどちらか、というより、その都度、ふたつの比率が異なるだけで混ざっている気はする。たとえば、哲学とかいうのも一種のフィクションで、自分の普段の考え方とは違う考え方をしてみることで、自分の普段の考え方というのも考え方のひとつに過ぎないと思ってみたり、という側面がある。なにより哲学に「ひたる」こともできる。かっこいいのはかっこいいからなあ。スター哲学者になりきる、みたいな。かっこよさげなのでいえば、ヴィトゲンシュタインとかドゥルーズとか??ニーチェはなんだか人間臭いが好きな人は好きだろう。