11/24(日)14時くらいに家を出て、確か地下鉄四ツ橋四ツ橋駅からではなく御堂筋線心斎橋駅からてくてくと歩いて、地上に出たあたりでヨシノブ君から電話があって正式な表記としてはYOSHiNOBUなのだけれど私にはどうでもよくて、でも私にはどうでもよくてもYOSHiNOBU君にはどうでもよくないからこう名乗っているのでちゃんとしたいと思う。てくてくと堀江方面に歩いていく途中にシスコを覗いてみるも特になにもないがどうやら閉店するらしく、てくてくと歩いて堀江病院だかそういう名前の病院のあたりを通り過ぎて鳥かごビルジングというビルジングにあるロカリテというカフェに到着。する前に鳥かごビルジングというビルジングあたりに到着した時に道の向こうからやってくるYOSHiNOBU君と出会って一緒にカフェに入る。ロカリテではYOSHiNOBU君の初個展をやっていて、YOSHiNOBU君はフェルトで動物をつくっている。フェルトの動物をつくっている。フェルトの動物をつくることで何をしようとしているのかは分からないが何かを為せば何かは必ず起きる。というよりもフェルトの動物を見るという行為においては、フェルトの動物をつくることで何をしようとしているかを分かる必要が全くないのが見る側としてはとてもありがたい。単純にフワフワの赤茶色のカバのそのカバ感を嗜めば良いのでとてもありがたい。そういうモノとしてのぬいぐるみ感というかある種の実用的プロダクトとしての隠れ蓑に隠れられるのは良いと思う。たぶんそういうことは意識せずにストレートにやっているんだと思うけれど、いまそういう隠れ蓑が必要なのだと思う。ひかがみもことばと音が互いに互いの後ろに隠れあうような構造を意識している。私だけかもしれないけれど。別にそれはどうでもよい。
きょう宇仁管書店で買った、旧訳版のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的談笑」より

どんな芸術家でも、ほかの人たちからの影響をうけており、その影響の跡は、かれの作品のなかにみることができる。だが重要なのは、かれの個性だけなのだ。ほかの人からうけついだものは、卵の殻でしかない。卵の殻がのこっているということを、わたしたちは寛容にながめておきたい。しかし卵の殻は、わたしたちの精神の栄養とはならないだろう。

いつもいつも「なぜ」を問題にする人というのは、ベーデガー[旅行案内書]を手にして、ある建物のまえに立ち、成立の事情などなどを読むのにいそがしくて、建物をみるのを忘れてしまう旅行者に似ている。

という二番目の文章の喩えは、RPGゲームをするときでさえ(ヴァーチャルな次元でさえ)攻略本がないと、アイテムの取り逃しがないか、進めなくなるのではないか、などなどの不安によってゲームもできない人に似ているような気もするし、もちろん談笑ではなく断章で、変換したら談笑と出てきたので面白くて放っておいたけれど、この一文も書かずにほんとうにただ放っておいても誰からも何も言われないであろうことがとても面白い。そしていま吉村さんの日記を読んで、星を、星を押そう、どこだ、ない…というもろもろを経て12月6日の「日記のタイトルやら」より

何で即興をやるのかとか、なんで作曲をするのか、何でターンテーブルを使うのかとか、何でミキサーを使うのかとか、何でフィードバックを使うのかとか、何で音叉を使うのかとか、何でヘッドフォンを使うのかとか、何でこの人が好きなのかとか、何でこの人を愛しているのかとか、やっぱり考えてしまう。

私が信用するのは、自分が所属する、あるいは所属しているであろう体系、つまりここでは音楽の中で、そこに踏みとどまりながらもそれでもその音楽の自明性というか、音楽を音楽として可能とするある種の制度のようなものを、そのまま丸ごと無条件に前提とするのではなくて、それに対する問いというか何らかの問題意識が実際の音楽から滲み出ているようなものだ。

ひとつ目の引用からふと思ったのは、まずはなんで?って考えないと、人間の為すことがすぐに「〜のための〜」なってしまうからというか、そこから快楽だけを繰り返し繰り返し引き出そうとしてしまうから、なのかもしれないけれどどうだろうかそうでもないだろうかということ。少なくとも私はそうかもしれない。ふたつ目の引用からふと思ったのは、私はもうすでに音楽(界)のなかにいなくて、少なくとも自分ではそう思っているけれど、もっと広く範囲をとって、というか考えうる最大の範囲をとって、表現(界)のなかにいるということを自分では想定していて、そうすることで安全な外へ自分だけ出ようとしてしまうことを防ごうと思っていて、その都度の最大の範囲なので踏みとどまるも踏みとどまらないもなくてどうやっても結果的に踏みとどまっていることになる。人間の行為はその内容に関わらずなんらかの「表現」としてなんらかの方法によって受容される可能性があるということがまず前提にあって、それが「表現」くくりが常にその都度の最大の範囲であることの根拠になっていて、そういう意味では私は吉村さんに信用してもらえる可能性があるけれどそんなこと私には分からないし、少なくとも私は吉村さんを信用しているので別に知らなくてもよい。いつのまにかこういう風になってしまっていたのだけれど、私が誰かを信用していてその人が私を信用しているかはどうでもよくて、私はまず誰でもとりあえず全面的にぜんたいとして信用してしまうところから始めるのでだからかどうかは分からないが相手がどう思っているかはあまり気にならない、といっても私が信用しているんだから相手も信用しているだろう、とかいうようなことでもない。たぶん「信用」という言い方がこの場合の私の態度を記述するのに適していないだけだとも思う。ただ単に受身なだけかもしれない。