お風呂に入っていたらだんだん頭が痛くなってきて、正確には確か頭を洗って流しているときで、たぶんそうだ。なんでそうかというと、たぶん寝不足だからで、昨日というか14日の未明にもろもろ作業をしたり、日記を書いたり書き足したり、遠藤浩輝「EDEN 〜It's an Endless World!〜」の18巻を六甲のブックファーストで見つけ(この前はなかったのに)買ってしまったので、再読してみたりしていたら、「EDEN 〜It's an Endless World!〜」はなんてぼんぼん人が死ぬのだろう、しかも重要な人物までぼんぼんと!と最初は思ったりもしたけれど、たぶんそこがよいところで、たしかに人は死なないより死ぬ方が自然というか、いつ死ぬかよりどう死ぬかというか、人は死ぬもんだろうよ、というか。執着のなさがよいのかもしれない。途中(何巻くらいからかは忘れた)から一切ケルビムが出てこなくてさーっとフェードアウトしてもう出てこないのかと思ったらひょっこり出てくる。噂をすれば影。ウィキペディアによると、「SF漫画作品」とのことで、SFのなんたるかを知らないというか意識すらしたことない私にはなんとも「SF」ということばは重くて、「SF漫画作品」といったらエヴァンゲリオンとか攻殻機動隊とかになるのだろうか。SF小説も読んだことないし。読んでて思ったのは、SF=サイエンスフィクションといいながらも、サイエンスよりソーシャルに興味があるのかな、この人は、ということで、サイエンスフィクションと言われるだけあって、道具立てとか「体」にサイエンスを導入してはいるけれど、ソーシャルな問題について、なにか言いたい感じ。うーん、パーソナルな問題を煮詰めたらソーシャルな問題になってた、みたいなことかもしれない。とはいえ「ディスクロージャーウイルスによって引き起こされる事態が目指すのは、もうひとつの宇宙を作ってコロイドに取り込まれた人達の情報を受精させ、新たな世界を開始させること」ということを、サイエンスの道具立てで描いたのにはたまげた。ぼやっとスピリチュアルな感じにならないのがいいなと。エヴァンゲリオンTVシリーズの最終回じゃなくて、あれなんだっけ、10年くらい前の劇場版の終わり方みたいな。そういうふうに思うと攻殻機動隊ってものすごくドライだなあ。とか書いていると、マンガやアニメに詳しそうだけれど、うちにあるマンガは先日買った「EDEN 〜It's an Endless World!〜」の18巻(のみ)と、山崎さんからもらったやまだ紫の「しんきらり」だけ。アニメは中学でやっていた部活(サッカー)の練習のあとで夕方にやっていて急に深夜に移ったエヴァンゲリオンを録画したビデオテープと、カウボーイビバップを録画したビデオテープと、紅の豚とかそういうのとかがたしかどっかにあるとはおもうけれど、たぶん引っ越しのときに捨てたっぽい。大学卒業後にビデオデッキというかテレビデオのビデオ機能を使用した記憶がない。そうこうしているうちに時間は経ってしまうのだけれど、昨日というか14日の日付が変わって未明もそうで、うっかりだんだん明るくなりつつあったりして、14日つまり昨日は9時50分に西宮北口で待ち合わせて、おじさんの車におじさんとばあちゃんと私の三人が乗り、10時30分伊丹着の飛行機に乗ってくる母ちゃんを伊丹空港まで迎えに行き、その足で、2時間くらいかけて兵庫の山奥にあるばあちゃんの田舎に行き親戚まわりや墓掃除や墓参りに行く予定になっていたので、もうこれは起きとこう、寝たら起きれないと思って、アフタヌーンのブログにアップされた遠藤浩輝さんが「EDEN 〜It's an Endless World!〜」連載中に書いていた全ての「作者近況」を読んだりしていたら、着々と時間は経っていくのだが、とうとう7時半くらいに布団にごろんと転がったら寝てしまい、起きとこうと決心する前にセットしておいた目覚ましにより8時半に起きてまた寝てしまうが、奇跡的に9時10分にむくっと起きて、ふらつきつつ階段を降り歯磨きをして用意して家を出て9時39分の梅田行き普通に間に合う。というわけで寝不足のため頭痛。私が開催に具体的に関わった音楽イベントは、みつ君とふたりで企画したのがふたつと、川口君と企画した吉村さんが来たときの2デイズと、ひとりでやった去年の直嶋君と平間君ので、計4つ。集客的にはたしか、最初の(トライアンドエラー1)が9人くらいで知り合いじゃない人が1人、二回目の(トライアンドエラー2)が知り合いのみ9人くらい、吉村さん2デイズは初日が出演者が多いためか知り合い知らない人半々くらいで計20人くらい?、二日目は知り合い知らない人半々くらいで9人くらい、直嶋平間は知り合い6人くらいに初対面の神谷さん1人、ってとこで、なんというかいま思えばやりっぱなしというか、社会的になにかしら積み重ねられたものは一切ないような気がする。だいたい「何のために」イベントをするのか、いまひとつよく考えていなくて、自分のやりたいこと・やっていることを、とにかく発信する場、として考えていて、発信さえすればそこでお終い、というか、発信してからどうなのか、何のために発信するのか、までぜんぜん考えていなかったし、とくに方法や手段や目的としての自分のやりたいことがなくなってからは、いまひとつ自分でわざわざ企画してやるモチベーションが見えなくなっていて、それはいまもあまり変わらないけれど、「とにかく発信!あとは知らん!」のときには見えてもいなかったことが、イベントという形式での発信欲がなくなってから、見えてきたような気もする。というよりなんだかもうなんかやりたいわけじゃなくて(パフォーマンスしたいわけでもなく文章を書きたいわけでもなく)、考え事したいだけだしな。。あとはやっぱり継続は力なり。吉村さんの(h)ear ringsや木下さん江崎さんみつ君のcom+positionなどなど。ある意志を持って続けていくとなにかしら積み重なるような。ついさっき(15日の16時30分くらい)読ませてもらったオルタさんのはてなダイアリー「オレの中が100人の村だったら」(http://d.hatena.ne.jp/alta/)の2008-08-15「絵について」(http://d.hatena.ne.jp/alta/20080815)がとても面白くて、連載(?)されていた「イラストレーターへの道」もすごく面白いのだけれど、私(たち)の悪いクセは、たぶん、自分がつくったものを自分以外の誰かがみるときに、自分が(自分のつくったものを)みるようにみるであろう、ないしは、それが理想だ、というふうに考えてしまいがちなこと。簡単にいえば、めちゃくちゃ甘いのだ、たぶん。みる人に甘えている。みる人のことを考えていない、というか、みる人も自分、みたいな狭い世界にしか住んでいない。自分のつくったもののターゲットは自分のような他人(つまり自分)、というふうに考えている。だから、現実がそうでないときに、そうでないこと(他人は自分のようでないこと)が大きな困難のように見えるし、それが間違ったことのように思える。なんだかはなしがズレてきたけれども、オルタさんの「絵について」でほわっと思いついたのは、現象と言葉とイメージは不可分の関係にあるな!ということで、うーん、この三位一体というか不可分の3項というかこんなんみたことあるな・・・と考えたら、ラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」がほわっと出てくる。といっても、厳密には違う意味だろうけど、だいたいは対応するような。物自体と言語活動とイマージュ?細かい説明は説明できるほど明瞭に理解しているわけでもなく、省略。。なんにしろ、たとえば、音楽にしたって、純粋な意味で聴覚にのみ作用する現象として「いいものはいい、よって、いいものが好き」なんてことは有り得ないわけで、テクノを聴くことでテクノ的イメージを消費したり、関西アンダーグランドの音楽を聴くことで、関西アンダーグラウンドに関与しているつもりになってみたり、クラシックを聴くことでお上品(かどうかという問いはここでは意味がない。どういう「つもり」で聴くか、というはなし)なつもりになってみたり、ノイズを聴くことでなにかしら反逆しているつもりになってみたり、とかいうわけで。。それで、受容者のみなさんが勝手に(というか自発的に)イメージ生成の一端を担ってイメージ消費をしてくれるのであれば、問題ないけれども、受容者の最初の食いつきすらもないような(つまりイメージの方向が管理されずに錯綜していて不安定かつ曖昧な)表現は、いったいどうしたらいいのか、ということ。無意識にイメージの方向付けはしてるんだろうけど。そもそもすべての表現は借り物なので、借りてきた物にはイメージがある。とはいえ、たぶん、明確なイメージがない、ってことは存在しない、ってことに近くて、それはラカンの「現実界」やカントの「物自体」が認識できないし知覚もできない、ってことと同じ?みてもみていない。ではみるというときなにが起きているのか。みることを形式づけるのが、イメージなのか。また言語とイメージは対立しているわけではなく、言語にもイメージがありイメージにもまた言語がある。のだろうか。