テッド・チャンあなたの人生の物語」はよなさん持ってた。買わなくてもよかったな。オーウェル1984年」の新訳文庫はないっぽい。なっちゃんより、アーシュラ・K・ル・グィン「所有せざる人々」を借りる。なんだっけ、なんか有名なやつ、ゲド戦記か、もこの人の小説らしい。昨日、文章を読む楽しみというものがあって、それに馴染める人は小説を読める、馴染めない人は小説を読めない、という説を聞いたけれど、文章を読む楽しみというのはあると思うけど、小説・フィクションだけがその対象になりうるとは思えない。もし仮に「フィクション」だけが読む楽しみを発生させる媒介になりうるとしても、人間はあらゆるものを「フィクション」として見ることができるんじゃないかと思う。少なくとも、「哲学・思想」がフィクションかノンフィクションかは怪しい気がする。フィクションの定義をどう考えるかにもよるけど。「本当」であるっていう絶対の保証をどこにも求められない以上、なにもかも「嘘」である可能性があって、なにを「本当」と「思う」かという基準は個々の人間の裁量とその個々の裁量の間の関係による。「嘘」というと誤解を招きかねなくて、嘘というか、あらゆる意見・理論にはなんらかのバイアスがかからざるをえないということか?ウェーバーの価値自由っていうのはこういうことを言ってんのか。またはただたんに、いま、「本当らしさ」を担っているのはメディアの形式性じゃなくて、メディアの使い方、ということか。国勢調査員終了。指導員のおじさんと会話(国勢調査についての事務的な)がすれ違い気味だったからではないだろうけど、国勢調査は金と時間のムダなんじゃないかと思う。これって、人々の様々な「属性」を集計して計算したら、国民・市民のニーズが分かって、国や自治体の政策が最適化されるのであります、ということなのだと理解しているけれど、だいたい「属性」を重視しすぎやろ。個人の属性でその人が必要とするものが分かる、なんて「ある程度」という注釈つきでも、どうなんやろなー。なんかもうこういう「上から下へ」の仕組みとかマクロな考え方って、いまどのくらい有効なんかな。