ツタヤに返却。また借りる。「志の輔らくごのごらく3 みどりの窓口/しじみ売り」、「柳家喬太郎 名演集2 金明竹/錦木検校」。たまにはいま生きている人のものを。枝雀の英語落語のがあって試聴してみると、たしかに英語だった。愛宕山はさっき聞いたばかりなので、英語でもわりと分かる。簡単な英語なのかもしれないけど。「20世紀SF6 1990年代 遺伝子戦争」のなかの、ロバート・J・ソウヤー「爬虫類のごとく…」、ジェフリー・A・ランディス「日の下を歩いて」を読む。風呂上りというか寝る前に。いまいろいろ落語を聞いてみているけれども、CDでだけれども、この感じは、大学の頃にいろいろ音楽を聞いてみていた感じと似ている。大学に入ってしばらくしてから歌のない音楽も音楽であると思うようになり、いろいろ聞きはじめたのだけれど、このときの面白さと似ている。桂小南の「しじみ売り」は聞いたことがあるけれど、志の輔の「しじみ売り」はぜんぜん違う。しじみ売りの少年は出てくるけど。ほぼ日日刊イトイ新聞の「今日のダーリン」というちょっと恥ずかしいコーナー名の糸井重里が毎日書くエッセイのようなものの歌謡曲についてのはなし。引用はアリなのかどうなのか分からん。あー、『コンテンツのご紹介、引用、転載などを希望される場合は、必ずご連絡をお願いします。』とのことで面倒なので、どうしようか。『歌謡曲っていうのは、私たちがいま暮らしている場とはまったく別のデザインが施された、架空の・想像の・空想の、世界なり空間なりをつくるもので、ある程度以上の音量でスピーカーから流すと周りの環境に多大な影響を及ぼします。そのへんのことが分かった上で自分ひとりで聴く分にはいいのだけれど、音が聴こえる範囲に他の人がいる場合には、「別のデザイン」が混じり合っておかしなことになります。』とある。これはたしかにそう。音楽を他人と一緒に聴くのに気恥ずかしさが伴うのはこれがあるから。とくに歌ものの場合は気恥ずかしさがかなり強い。「しかし、ipodを使って自分ひとりで聴いているぶんには、音楽の鳴っている空間はひとりにひとつなので、他人に遠慮することなく「ひたれる」んです。』そうすることで、歌謡曲の魅力を改めて感じた、みたいなこと。いまの音楽の聴き方って、どっちかというとウォークマンipodによる「ひとりにひとつ」タイプだと思うんだけれども、まあ「みんなでひとつ」もたくさんある。つまるところ、ひとりであろうがみんなであろうが、「ひたれる」ということが重要で、なににひたるかといえば、架空の・想像の・空想の、世界なり空間、つまりフィクションなのだけれど、いつから人間がフィクションにひたるようになったのかが気になる。言い換えれば、なぜ人間はフィクションを必要とするようになったのか。たとえば、太古の時代、マンモスを追っている時代、フィクションにひたっただろうか。いまの意味でのフィクションは必要としなかっただろうけれど、理解しがたいことを納得するための作り話、作り事、フィクションはつかっただろうか。フィクションの起源は神話の起源と同じなのかどうなのか。あと、宗教的体験を生み出した人物は最初にフィクションをつくりだした人物かもしれない。えーといまフィクションってことばを広くつかっているので、狭く捉えるとすると、オレにはフィクションなんていらないぜ!という人もいるだろう。現実の仕事だけだ、フィクション・作り事なんていらない、と。フィクションを、見世物として作られた作り話だと捉えると、そうなるかもしれない。狭い意味でのフィクションというと、小説、映画、ゲーム、アニメ、マンガ、音楽、落語、演劇、あとなんかあるかな。ああ、美術とか芸術も。ドラマも。お笑いも。もろもろのテレビ番組も。スポーツもそうよね。そういうもろもろの作り事はオレにはいらない。オレは仕事一筋だ、仕事が趣味だ、みたいなことはたしかにありうる。仕事以外にも非フィクションはあるか。料理、洗濯、掃除、育児、などの家事一般も、非フィクションに入る。生存のための活動一般が非フィクションと呼ばれうる。うーん、家事を持ち出すと、仕事が非フィクションかどうかちょっと怪しくならないか。それ自体で完結したルールをもっているひとつの世界、という意味においては、仕事はフィクションでありうる。約束事があり役割があり短期目標もあり、ゲームのようであり演劇のようでもあり。なにより、物理的な意味での「居場所」であることはもとより、仮想の、精神的な「居場所」としても機能するところをみると、けっこうフィクション性がある。複数の役割・居場所を行き来するのがふつうであるならば、ただひとつの現実があり、その向こう側に各種フィクションがある、っていうのは無理がある。そうなると、家事もいっしょか。なんだろ、これは。つまるところ、フィクションを、仮想の、精神的な居場所だと定義すると、フィクションと非フィクションという区別はなくなるなあと。誰か言っているようなことに落ち着いた。音楽に「ひたる」っていう言い方が成り立つとするなら、家事に「ひたる」っていう言い方も成り立つし、仕事に「ひたる」という言い方も成り立つ。生活に「ひたる」っていうのも。やたら、生活、生活いう傾向が目に付くけど、けっきょく生活とかいうのも、もう「凝る」対象でしかなくて、そういう遊びになってしまっている感じがある。生活(のための道具、ないしは生活スタイル)にこだわるという遊び。だからどうってこともないけど、遊びじゃない領域っていうのは、もうまったくないのかもしれない。いや、遊びとこだわりは別かもしれない。いや、同じことだけど。没頭する、ひたる、という意味においては。遊ぶ、こだわる、工夫する、ということが、飽きずに生きるための方法だと思う。生きなきゃ死ぬっていうのはもうはるか昔に終わってしまったし。そういう、遊ぶ・こだわる・工夫する、を回収するものとして各種フィクションがあり、それは仕事も生活も例外ではない。やばい、そしたら、工場内軽作業と布教活動が同じことになり、外国為替証拠金取引と即興演奏も同じことになる。いや、違う、っていうことがあるとすれば、それはどちらかに、「遊ぶ・こだわる・工夫する」を投影できていないか、構造的に投影できないか。構造的に投影できないっていうのはありえないな、たぶん。どっちかというと、対象と自分の関係の問題。最近うちのあたりを担当していると思しき、ヤマトのお兄さんは帽子を斜めにかぶる。birdのライブ映像とか見てたら、セオ・パリッシュが日本でDJやってる映像が出てきて、見てみたらオシャレだった。レーザーが・・。レーザーっていえば、マーク・フェルだかと、誰かメゴの人がやったレーザーとノイズのライブがyoutubeにあった気がする。スモークたいて、レーザーとノイズをコンピュータで制御するみたいなの。ああ、ヘッカーと誰かだったかな。と思ったら、Aphex Twin + Hecker っていうライブ映像がいっぱいある・・。あ、Russell HaswellとHeckerだ、レーザーとノイズ。