起きた。まだのど風邪罹患中。加湿器。今村仁司「近代の労働観」は昨日の風呂で読了。木田元現象学」も寝るまえに読了。今村仁司「近代の労働観」は対他欲望・承認欲望を軸にしている点で私の考えごとと重なるけれど、それだけじゃない気もするというか、それだけだとせちがらい。あと9文字。あと、



Twitterについてのこの説明はけっこう納得。http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20091129 ネットに限らず実社会にも自己キャラっていうのはあるけれども、今村仁司「近代の労働観」にあったパスカル「パンセ」の引用を思い出す。関係はないような気もする。

われわれは、自分のなか、自分自身の存在のうちでわれわれが持っている生活では満足しない。われわれは、他人の観念のなかで仮想の生活をしようとし、そのために外見を整えることに努力する。われわれは絶えず、われわれの仮想の存在を美化し、保存することのために働き、ほんとうの存在をおろそかにする。



2文字はみでたけれども、他人(パスカル)の書いたものなので、勝手に削って調整するわけにはいかないのが難しいところ。ちなみにパスカルのいう外見っていうのは内面の外見も(を?われわれの仮想の存在?)指している、たぶん。あと33文字。あと26文字。あと19文字。あと12文字。あと5文字

別に「以内」であればOKなんだろうけどキッチリしたくなるけど「あと○○文字」でかせぐのもどうかと思う。とにかく、こういうふうに細切れに書き込みをしていって、フォローされている人たちに行き渡り、流されたり反応されたりするわけだな。記名性のある誰かにフォローされている=見られている

(はず)というのが重要なのだな。実際見られているかどうかは別にして、システム上、見られている「はず」ということが保証されていればよいのだと思う。ブログにもそういう要素はあるけれど、システムに組み込まれてはいないし、アクセスカウンターは匿名的だし、アクセス解析を細かくたどれば「

誰」っていうのは分からなくもない場合はあるけれど。分からない場合の方が多い。Twitterを「定点観測」みたいに使えば面白いのかもと思って、たとえば毎日決まった時刻に自分のいまいる場所から見える風景をきっちり140字で描写するとか(見えるものの羅列でもいい。むしろそっちの方が

いいかも)、いまいる場所で聞こえる音をキッチリ140字で描写するとか(聞こえるものの羅列でもいい。むしろそっちの方がいいかも)、つまり自分の心情とか思考とか状態とかとすこし離れたものを書き込んでいくということで、でも誰かやっているような気がするので、その誰かにおまかせしたい。

たのみます。自分でやるのは面倒くさいし結局のところ自分の欲望のサイクルに巻き込まれてしまうし・・。すでにこの日記を書くことで巻き込まれているけれども。http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20091129にて引用されている大澤真幸さんが言うように、他人の視線

=観客を求める心性っていうのは、自分の生を物語化しその主人公たらんとする欲望なのかしら。もはや「承認」ですらなく「視線」さえあればよい、というのは面白い。ネット上においては、見る=フォローする、っていうのはひとつの選択=承認でもあるか。 能動的に検索したりなにしたりして選択しない

と見れないし、ネットって。あ、なんか中途半端な文字数になったな。あと108文字。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

昨日、口笛を吹きながら歩いている人がいて、というか、部屋で洗濯物を干していたやったか安静にしていたやったかしていたら外から上手な口笛が聞こえてきたので、吹いている曲(クラシックっぽかった)に合わせて勝手につくったパートを外に向かって吹いてみたが、通り過ぎたあとで気づかれなかった。

一昨日、母ちゃんを空港まで送っていった。空港に3D映像のデモンストレーションみたいな機械がある。飛び出る絵の動画版か。弁当のタコウインナーが踊ったりしている。携帯で撮ってみる。当然、立体ではないのがなんとなく嬉しい。機械の投影の時点では2Dであくまでも知覚の時点で3Dに「見える」という。

当然、立体ではないのがなんとなく嬉しいのは、世界がいくつもの次元において複雑だからなのかも。いまiPodが選んだのは八代目林家正蔵の「幸手堤」。その前は田中彰の「Preparation」。アルバム「New Town」は地味な傑作だと思う。レイハラカミ、スズキスキーに連なる、音色がしょぼいけどなんとなくしょぼい気がしない音楽。

今日、部屋の掃除をしていてそのへんにちらばっているチラシとかを捨てていたら、どっかで拾ってきていたカロンズネットというサイトのチラシが出てきて誤変換すると軽んずネットだ。この人を見よ。どの人を見よ?俺を見よ、じゃないのだな。ニーチェその人とニーチェというキャラクターは違うのだな。

だいぶ前に2・300円で買ったニーチェ「この人を見よ」をパラパラと読んでみる。カロンズネットの展覧会情報(http://www.kalons.net/j/news/)のトップに、末永史尚さんとスコット・オルソンさんの展示情報が。末永さんは組み替え可能な絵画を出品している模様。「この人を見よ」の、「なぜわたしはこんなに賢明なのか」を読んでみる。

腹が減る。炊飯器でホットケーキをやってみようか。http://cookpad.com/recipe/168753この前の妹がつくっていたのはこれだろう。卵がたくさんあるし。あとは残り物の野菜をつかってオムレツでもしようか。コーヒーも新たにいれよう。妹の小豆島みやげのコーヒー豆は挽いてあったので(挽くと酸化が早い)、残念だがあまり美味とはいえない。

ホットケーキはうまくいったが、オムレツは失敗だ。なんだかこげっぽい。スペイン風のオムレツにしたかったのだけれども。野菜を炒めたのが原因か。妹の指摘の通り、蒸すのが吉だろうな。そりゃ、ニーチェみたいな人がおったら、同時代の人は扱いにくいだろう。どう考えてもめんどくさい人でしかない。

私には潔癖の本能が備わっており、人間の魂の最奥のものをかぎわける鋭敏さがあるので、いろんな人の魂の汚さが気になる、みたいなことを言う。めんどくさい人だ。でも、ニーチェにならないためにニーチェを読むことに意義がありそうだ。竹村延和「10th」は「こどもと魔法」に比べるとなにやら薄いような。

そういえば、アセンブラ名義の作品の妙な荒っぽさの、その当時(今もか)の、電子音楽というよりエレクトロニカとかいうものの、エレガントさへの志向(大雑把すぎるが)ばかりの傾向のなかにあって、対案を示している感じに好感を持てた。あと、なぜか私たちは「怒れる人」を持ち上げたがる。不思議。

エレン・メイクシンス・ウッド「資本主義の起源」。風呂前に序文を、湯船で第一部「移行史論」を読む。なんだかんだで半分。重要なのは、人々が競争と蓄積という資本主義的命法をどのように内面化していったのか、ということの模様。あらゆる立場の人において「競争と蓄積」がメリットになる条件とは。

いや、メリットというような能動的なものではなくて、おそらくもっと消極的な理由による。それが「メリット」として意識されるというのが、「内面化された」ということなのだと思われる。ここ近年の「怒れる人」といえば、小泉純一郎さんとか?オバマさんは怒っていないように見える。見せているのか。