日曜日、半分寝つつもツタヤで借りた「ニーチェの馬」を観たが、というか原題「トリノの馬」じゃないかと思いつつ、観たけれど、こういう映画もあるのかと驚く。うーん、なんと言ったらいいのかわからんけども、これは映画という虚構なんだけど、映画という虚構のなかでの事実がある、という感じがする。物語を追う感じでもない。映像美みたいなのはあるだろうけど、そのへんはあまりよく分からない。登場人物たちの生きる環境にだんだんと異変が起きてきて、しかし登場人物たちはほとんど動じないというか、変化に抗うわけでもなく受け止めていくんだけれど、そのような変化が起きるのは何故かとか謎解きとか解決のようなものは一切ないのがいいし、そもそもそういう疑問が浮かばないのが不思議でもある。いまふと、枝雀のなにかの噺のマクラで出てきた、面倒くさがりの親子の話があって、それを思い出した。「ああ、ロウソクの火があぶないな」「あぶないと思ったら消しいな」「じゃまくさいな」「なら、ほっとけほっとけ」「ああ、燃えだしたな、あぶないな」「あぶないと思ったら消しいな」「じゃまくさいな」「なら、ほっとけほっとけ」「ああ、だいぶあつうなってきたな」「あついんやったら消しいな」「じゃまくさいな」「なら、ほっとけほっとけ」で、焼け死んで、閻魔様かなんかに、お前らは人間には生まれ変わらせんぞ!獣になるのだ!しかしなにになるかは選ばせてやる!と聞かれて、これがいいかあれがいいか聞かれるが、どれも断り最後に、猫やったらいっつも寝てるだけやから猫でお願いします。汚れが目立たんように黒猫で、みたいな話。「ニーチェの馬」と話として似ているわけではないけども。「ニーチェの馬」の父娘はじゃまくさがりではないし、こういうやり方・生き方しか知らんからこうするより他ない、とすら思っていないんだろうなあ。あとは、それがそれ自体である、というのは重要なことだと思う。私もそれは気になる。それはそれで”そういう”感傷ともいえなくもないけど。