http://d.hatena.ne.jp/k11/20090921のコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/k11/comment?date=20090921#c)でのタッタカさんとのやりとりが長くなってきたので、お返事を新たな日記として書きます。新しい日記を追加すると9月21日は次のページにいってしまうので・・。以下、お返事です。


ふふ、そうですねー。相変わらず堂々巡りしてますが、たぶんふたりの自分語り傾向が多いに関係しているような気がします(笑)。「オレはこう思う」だけをむやみに積み重ねているだけという。ちょっと気をつけてみてはいるんですが。あとやはり書き言葉でのやりとりのマイナス面がすごくでてるような気も(笑)。考え方のズレというよりも、語の理解や使い方のズレが暴走しているというか。


最初に、このやりとり自体に関する思ったことをいくつか。


はなしをややこしくしてしまったのは、宗教と神のはなしですね。。これはたんなる類推なので必ずしも必要なはなしではありません。ややこしいだけでした。そもそもタッタカさんがアートを神だと思っているとは思っていません(笑)。アートが、「人々」と枠組みなりシステムなり(ここでは宗教)の関係ありきのものなのか、「人々」と枠組みなりシステムなりの関係とは無関係にその関係を成立させる前提として存在していないといけないものなのか、という対比の比喩として使いたかったみたいです。宗教と神がなんなのかはよくわかってませんが・・。前にも書きましたが、このどちらかのモデルでアートが理解できるというより、どちらも関係あるとは思っています。まったく関係ないかもしれませんけれど。あくまで考えるための「モデル」です。それとは別に宗教には興味があります。


そして、堂々巡りの原因としてさらにあやしいのは、お互いに自分を「非」神秘主義者だと思っていること(笑)。私自身に限っていえば、実証的であろうとするというよりも、神秘主義的でありたくない、という振る舞いをしてしまっているような気がしてきて反省しているところです。実証的であればよいというよりも、とにかく「非」神秘主義的であればよいというか。神秘的な考えが妄信であるとそれこそ「妄信」しているようなところがあります。しかし神秘なる概念を直視せずにやみくもに避けようとしているだけなので、知らず知らず神秘的だったりすることもあるのかなと思います。なんかそう思ったら、神秘主義とも実証主義ともうまい具合に距離がとれる気がしてきました(笑)。それと、私は超越性・超越的という語をちゃんと使うことができていないようにも思います。なんだか語に引っ張られている感じがしますね。


タッタカさんが、一般には語義の曖昧な「超越性・超越的」という語を使うのがどうもひっかかっていました。「超越性・超越的」という語は「人知の及ばない」という意味での「神秘」と、イメージとしては、かなり近いように思えたからです。そこで、自分でも使ってみたらなんか分かるかなと思ったのですが、どうもむずかしかったです。とはいえ、哲学的には「超越性・超越的」という語は厳密に定義され「神秘」とは区別されているものだと思われるので、語の使用自体はなんら問題ではないのだなと反省しました。語をイメージで捉えることの問題と、単なる勉強不足です・・。あとは、神秘主義についても、いろいろあるというか、文字通りの神秘主義と、「人知の及ばない」という「神秘」の性質を利用するだけの(擬似?)神秘主義もあるような気がします。また以前、ロマン主義が便利なことばとして使われるというはなしが出ましたが、神秘主義という語の否定的使用もまた同じですよね。論理の飛躍や表現の曖昧さを「神秘主義」だとして簡単に片付けてしまえます。それも神秘主義とはなにかの共通理解なしに、それこそ語の否定的イメージを使うだけで、です。これはやはり問題なのかなと思います。「非」神秘主義的であろうとすることと、実証的・実用的であることは関係がない、これは反省すべきことかなと。だいたい「神秘主義的」ってなんなんでしょう。実証的・実用的であるためには、神秘主義的思考を排する(あまりそれこそ魔女狩り状態に陥る)よりも、実証的・実用的な思考パターンの習得が必要なんだろうなーと思いました。


『実存をどう捉えるかを考える時にニーチェキェルケゴールかみたいに考える』ということを、ちょっとだけ簡単にでいいので聞かせてください。面白そうです。


長い脱線でしたが、戻ります。


『アートの存在を規定するのは人間の判断だけではない』ということはお互い意見が一致していると思います。では、人間の判断だけではないとして、その「以外」のものはなにか、といったはなしだったのかもしれません。明解に言うのは難しいですが、、人間の主観・判断と相互に作用しあう、枠組み・・関係の組み合わせと積み重ね・・組織・・回路・・集合知・・暗黙知形式知・・コンテクストとスキーマ・・みたいなものの働き、みたいなものを今は考えています。ああ、いまふと思ったのですが、ひょっとして、タッタカさんから見て私が神秘主義者に見えるポイントは、私の言っていることが独我論みたいに見えるところなのかなと思いました。たしかに私は、個人の感じ方・見え方といったような意味での主観からスタートしています。しかし個々の主観のなかにのみアートがあるというような考えでは共通の尺度がまったくないことになりますし、複数の主観によって構成される運動というか働きのようなものをとらえきれません。そこで私は、複数の主観による判断とそれを含みかつ含まれもしながら相互に作用する間主観的な関係の働きとしてアートなる現象を考えるようにしてみました。それは前回書いたとおりです。こういう枠組みは現象学そのものだなーといま気づきました。そんなには意識していなかったのですが、現象学にかなり影響を受けているのかもしれません・・。いちばん影響を受けているのは、認知症のうちのばあちゃんとのやりとりかもしれませんけれど。あるいは、私の「本質」と「見え方」についての最近の考えも関係しているかもしれません。いままであまりに「本質」重視だったので、ためしにここ何年かは「どう見えるか」重視というふうにしてみています。本質と見え方の共同作業で意味が生まれる、というふうなのか、うーん、どうなんだろう・・。こういうふうに考えてみている動機としては、正解と誤解とはなにが違うのか、ということかもしれません。


また、「アートが在る」というとき、気をつけていてもうっかりアートを実体としてイメージしてしまうので、複数の主観によって運動というか働きが構成されることとまったく無関係に実体として「在る」感じを持ってしまうのですが(神がどうとかいうのはこれが原因ですね)、主観と間主観的な関係の関係や作用の総体として「アートが在る」というイメージであればいまのところしっくりきます。これはたしかに「第三者の審級」ともいえるかもしれません。精神分析の言説がなにやら神秘主義的なのは、まあそうですよね・・。でも使い方というか語り方次第のようにも思えますが、そうでもない気もします・・。


いや、「人間を超える」っていうのはまさにそうですよね(笑)。「小説の〜」シリーズ終盤の保坂和志さんのようです。といっても、私の場合、なにかのきっかけで思考とか判断とか感覚のフレームが変化していく、とかそれくらいの意味かもしれないですね。たぶんそれ以上の意味はないです。類として、存在としての人間を超える、なんてことまで考えるのは私には荷が重いです。そして「きっかけ」ではなく「変化していく」方を今のところは重視しています。いままで「きっかけ」重視だったので最近は「変化していく」方を重視してみています。なので人間の理性なり判断なりとその条件そのものに着目することになります。タッタカさんのおはなしを受けて、自分では「超越性」についてはなしているつもりで、「超越論的な認識」についてはなしていたのかもしれません。でもどちらにしろ神秘主義的である可能性は多分にありますね。うーん、でもまあ「変化していく」ことが重要というよりも、変化することと変化しないことも関係しあっていたりして、その動きのなかで、やっていることや考えていることが深まっていったりするのは、面白いな、ということかと思います。