http://d.hatena.ne.jp/k11/20090415

それはそうと、おとといは九品仏D&DEPARTMENTに行ったのだけれど、というかこれがお使いなのだけれど、2階壁面にこの前おこなわれたという「60VISION MEETING in TOKYO」のマルニの方を招いた会の、アンケートのようなものが貼ってあって、参加者の方から寄せられた質問にナガオカケンメイさんもしくはマルニの河村謙一さんという方が答える、というものらしい。質問も答えも文字なので、会の質疑応答の録音なり映像なりから文字起こししたのかと思いきや、事前に文字で寄せられた質問すべてにそれぞれ答えたものらしい。そりゃすごいな、、労力が。けっこう本気の質問が多くておもしろい。D&DEPARTMENTのやっていること、ざっくりキーワードでいえば「ロングライフデザイン」ということが、流行に流されないもの、をテーマにしつつも、「流行に流されないもの」という「流行」に終わってしまう可能性がないか、そしてその対策などは?みたいなものがあって、これは私も思う。http://d.hatena.ne.jp/k11/20080803とか。でもちょっとこのアンケートというか、質問と答え、を読んでいると、ナガオカさんは自分たちのやっていること・扱っている商品(モノ)が唯一の良いデザイン、ロングライフデザインだ!とか言いたいわけではなくて、あえて極端に言うことで、問題提起をしているのだなと思った。たぶん、やっていること・扱っている商品は一例なのであって、消費者としての私たちはそれらを愛でることが求められているのではなく、デザイン=社会を設計すること、についてそれぞれ考えることが求められているのだと思う。まず、問題なのは、「つくらなくてもよいもの」がつくられることであって、なおかつ、「必要だから」というより「売る」ため、つまり経済を循環させるためだけにものがつくられる、ということ。そしてもうひとつ厄介なのは「つくる」ためにつくられること。つくりたいからつくる、という。「答え」を出すために無意味で不必要な「問題」をつくりだすことに似ている。解くための問題など問題ではない。というのもあって、アートとか音楽とか、そういうなにかを創作すること一般によくあるけど、「やりたいからやる」とかいうぼんやりした同語反復は正直よくわからない。「自分はなぜこれをやるのか」という問いから逃げて、「やる楽しさ」だけに閉じ篭っているようにしかみえない。「自分はなぜこれをやるのか」っていうのは、別に、社会的に価値があるかどうか、とか、需要がある=社会に求められるかどうか、とかいうはなしではなくて、ただたんに、自分はどのような欲求で動いているのか、というだけで、それに無自覚だと、ただの独り善がりなひと・こと・もの、になるのではなかろうか。そしてこれはよく言われることだと思うけれど、アートとか音楽とか、なにかを創作すること一般をやることで満たされるのは、表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲(他人に認められたい!)あたりで、創作にまつわる人間のこういう欲求をうまく刺激して経済に結び付けたのが、たぶん出版代行(新風社とか?)とか箱貸し・スペース貸しビジネス=ライブハウス・クラブ・貸しギャラリー、なのではないかと思う。作品の発表を代行する、という意味では出版代行(新風社とか?)もライブハウス・クラブ・貸しギャラリーも同じだ。出版代行と、イベント代行、展示代行。発表の場をあなたに!という「発表機会提供サービス」。サービスの対価さえ支払えばとりあえずだれでも発表できる。もちろん敷居はいろいろだろうけれども。こういう仕組みでややこしいというかあざといなというか鬱陶しいなと思うのは、明らかに「発表機会提供サービス」というビジネス=商売でありながら、文化を盛り上げるとか文化を担うとかアーティストをサポートするとか言うだけで、公共の利益、公益性があるかのようにみせかけられること。「発表機会提供サービス」が成立するためには、大量の発表したい人、創作者、アーティストがいることが必要なのだけれど、ということはつまり、大量の表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲が市場に溢れていないといけない。これはもう考えるまでもなく、溢れるほど溢れている。仕事に打ち込めない、仕事を通して社会に関われない人たちの表現・自己実現欲、自己顕示欲、承認欲がどこに向かうかというと、アートとか音楽とか、なにかを創作すること、しかない。社会と関わる、他人と関わる、いわゆる「仕事」と違って、創作の世界では自分だけの価値観に閉じ篭ることができる。いまの時代って、なんでもかんでも相対化されてしまうので、自分の価値観=自分のやっていることが「客観的に」否定されることがない、というか原理的にできない(「人それぞれ」)。なにかをやってもやった本人の主観だし、そのなにかについての判断を下したとしてもそれをした人の主観だ、ということになっている。とにかく「意図」=「主観」という閉じた自己の世界。自分のやったことがつまらないとかダメだとか言われたり、客がこない、とかなったとしても、鑑賞者・消費者が悪い(時代がついてきていない、理解できないのが悪い)というふうに捉えるか、創作者・生産者の力量がない(もっと頑張らないと!)、ってことになり、そのふたつの問題について考えるだけで、そのまえの「なぜつくる」・「なぜみる」というようなところを無視したまま、欲求の連鎖だけが続いてゆく。そして「発表機会提供サービス」も続いてゆく。

表現・創作の道具はいうにおよばず、表現の発表の機会もひとつの巨大な市場として経済の循環に取り込まれているわけで、そういう商売にうまいことそそのかされて、そういう商売の手のひらの上で(決まりきった形式のうえで)表現してしまっているのではないか・・・という恐れのはなしです。自分は自分のやりたいことをやっているつもりでも、単なるお金もうけのカモにされているかも・・・・という恐れのはなしです。かつ、従来からある「発表機会提供サービス」があまりにもそこのへんについて無頓着なのでは、というはなしです。たとえば、「発表機会提供サービス」のひとつ、貸しギャラリーについて。お金で貸して運営していこうなんて安直なことをせずに、無料だけどギャラリー側も表現者のひとりとしてはなしあってつくっていく、とか、そういうことをした方が、面白いものができる可能性が高いと思うのだけれど。こういう分野で、表現者と裏方、とかいうふうに分業してもあまり面白くなるとは思えない。そもそも分業が面白いとは思えないし。あとは、表現者も発表の場をもつ人も、中途半端にやりたいことで生計を立てようとするから、自分ひとりではどうしようもなくなるわけで、そこは山本握微さんにならって、他に仕事をして生計を立てつつ芸術活動を行う普通芸術家になればよいのだ。生計を立てる!というプレッシャーが創作の糧になるなんて、いつの時代のはなしだ。と書いてみたところで、だからどうなるというものでもないし、文句いったところで始まらないし、これはこれで疲れるので、なんともいえない。