カレンダーを買わないといけない。毎年つかっている葛西薫さんのカレンダーを妹も買っていた。罫線アリのを。去年は罫線ナシをつかった。魚津郁夫「プラグマティズムの思想」はこのあいだ10章まで読んでそれから進んでない。岡部勉「合理的とはどういうことか―愚かさと弱さの哲学」を読んでいて、いま第4章「人間の自然・不自然と不合理」。ぼちぼち読み終わる。思っていた「合理性」のはなしと関係あるようなないような、しかしすくなくとも考えを拡張してくれるはなしではある、ような気もする。語り口はやさしいが内容はわりとむずかしい、と思う。ヒトが人間になる、というはなしをきちっと読んだのは初めてかもしれない。あと、本筋とはそんなに関係ないが、実在論と認知主義についてわりとよく分かった気がするので、これはひとまず収穫だと思う。「アート」なることば、ないし、概念についての、タッタカさんと私の思っていることの違いは、「アート」が「そのものとして」実在すると考えるかどうか、なのかなーとぼんやり思っていたのがすこしはっきりしたかもしれない。といっても、私たちが実在論唯名論のどちらかっていうわけでもなくて、ぼんやりとしたグラデーションのなかのどこかだ、ということだと思うし、そもそも私自身は自分がどのへんなのかはよく分かっていない。いや、「アート」が「そのものとして」実在すると考えるというより、「アート的なもの」と「アート」を区別する必要(どのような必要かは議論の余地がある)から便宜的に参照項として「アート」という実体が求められている、っていうことなのかもしれない。金曜日の18時くらいに家を出てばあちゃんちに向かう。おじさんちでもある。名義はどちらなのだろうか。おじさんが出張でいないので姉ちゃんと一緒に泊まりに行く。お歳暮かなんかなのか個体識別番号付きの牛肉があるのですき焼きをする。美味。しかしちょっと脂がくどいかも。ばあちゃんが誕生日なので姉ちゃんがお花を買ってくる。0時ごろ姉ちゃんは寝る。1時間ほどお風呂で読書。なぜか一度ばあちゃんが風呂場にやってきて、終わったから、と言って去っていった。何が終わったなのかは分からない。スーパーのビニール袋をもってうろうろしている様子。なんだろう。そのうち風呂場の隣のトイレに入ったようだが、なかなか出てこない。読書しつつも気になっていると、なにやらトイレのドアをノックしているような音と助けを呼ぶような声がする。なんだろうか、ビニール袋が詰って水でも溢れたのだろうかと思ってトイレを見に行くと、電気を付け忘れて入ってしまい暗いトイレから出られなくなってうずくまっていた。だいぶ精神的に消耗したようで、なんだか落ち込んでいる。とにかく布団へと促す。布団に入らずその手前のあたりでずっとうずくまっているので、背中や肩をマッサージしてあげながら、話を聞く。だんだん気分が落ち着いてきて布団に入り就寝。1時半くらい。土曜日は朝7時半くらいにばあちゃんが布団から這い出そうとしているのを見て、トイレまで誘導。起きてすぐは立ち上がれないのかもしれない。朝食にばあちゃんはパンとドラ焼をすこし食べた。おじさんは9時半ごろ帰ってきて、またすぐマンションの会合と仕事に出ていった。昼食はチャーハンと味噌汁とだいこんと豚バラを炊いたやつ。一日ぼんやり3人で過ごす。ばあちゃんと姉ちゃんはときどき居眠りしていた。姉ちゃんは夕方帰る。17時半くらいにご飯の用意をしないと、というようなことをばあちゃんが言い出したので、用意をするけれど、とくに食べるわけでもない。おじさんが17時半に帰ってくると思ったらしい。おなかが減ったようで、食べようかとのことなので、18時半くらいにばあちゃんとふたりで夕飯。昼の残り。20時半くらいにおじさん帰宅。ご飯を食べていると、阪神・淡路大震災のときの神戸新聞の人たちを描いたドラマが始まって、見る。ばあちゃんはソファーで寝ている。22時半くらいにタクシーを頼む電話をしたら、22時50分ごろに来た。いや、22時50分に、とおじさんが指定していた。そういえば、このまえのよなさんとこで行なわれた「雑誌的な機能をもったものについて話をする日」というイベント名だけみたらなんのことか分からないが、要するによなさんと蛇谷さんがそういうものをつくろうとしていて、その公開ミーティング、というか、文字通り意見交換会で、そこで松本渉さんがおっしゃっていたことを思いだすけれど、松本さんも「好き/嫌いだけでつくるもの」と「批評的なもの」という基準でもって、自分が必要としているものを選別しているみたいだった。それはほんとによく分かるし、いままでもさんざん好き/嫌いでつくるのはどうかと思うということを書いてきているので、ほんとによく分かるが、その反面、さまざまな創作を行なう人々で形作られている世界が「好き/嫌い」と「批評的」の二層にバキッと分かれてしまいそうな流れにあるのが、なんだかイヤだなーと思ったりもする。それしかないのかなと。そして、「好き/嫌い」と「批評的」という対はそれぞれ「お稽古事」と「社会運動」とでもいうような側面もあるんじゃないかなとずっと思っていて、お稽古と発表会で成り立つ「お稽古事」(自己鍛錬・修行・求道という側面が強い。もしくは同類と繋がりたい、同類を増やしたいという欲求。基本的に「個人的・私的」)、社会へ批評的(批判的というか)な問いを投げかける「社会運動」(社会や人々へどのような問いかけをどのように発するかを重視する。基本的に「社会的・公共的」)。で、ひょっとしたら「社会運動」的アートは手段としてアートを使っているということでもあるので、ひょっとしたらば純粋な「社会運動」の方に回収されていくかもしれない。そうするとあとに残るのは「お稽古事」だけなのかしら。おっ、そうだそうだ。twitterにk11という人がいるらしく(http://twitter.com/k11)、直嶋君(たち?)が私だと思ってフォローしているというはなしをだいぶ前に聞いたのですが、私ではないです。というか、やるなら本名でやるだろうし。k11なんてのは、はるかむかしに、友達の掲示板に私の名前の寛一郎(kanichiro)の最初の文字のkとか11(アルファベットの11番目=k)とかで書き込みをしていた名残でしかないので、考えも思い入れもなんにもありません。それを知ってタッタカさんがなぜかちょっとがっかりしていたのを思い出します。あ、いまさっき2層と書いたけれど、もう1層あって、それはアートによるアートのためのアートの世界。この世界は、(作品・行為に対する)価値・意味付けのルールを内側に持っていて、それを更新し続ける(付け足し続ける?もしくは再生産し続ける?)ことだけが存在理由のように見えて、だからそのぶん強固でずっと残り続ける気がする。自給自足。おー、そしたら、いまの考えの流れでいくと、「批評的なもの」というのは、ふたつの流れに分かれていくことになるのかな。ひとつに、現代社会批評・批判としての社会運動になるもの、ふたつめにアートの世界の(ということはアートの世界でしか通用しない)価値・意味付けのルールを批評・批判するもの、のふたつに。しかし以上のことはあくまでも思いつきなのでなんともいえない。そもそもその思いつきの土台にある現状認識が間違っているかもしれないし、タッタカさんについても間違って理解しているのかもしれないし。どうなんでしょう。そもそもこういう鳥瞰的な視点が個々の行為なり作品なりを評価するときに役に立つのかというと微妙なところでもあるし。行為や作品に先立つ「つもり」とか「態度」みたいなものを問題にしだすと、というかそういう問題設定の仕方には「つもり」なり「態度」なり「思想」なりが行為や作品を規定する、という前提があるのだけれど、とにかく作者の「つもり」とか「態度」みたいなものをあまりに重視しすぎると、行為や作品を読み解くなかで作者の「つもり」なり「態度」なり「思想」なりを推測し、それらについての評価をすることが、「鑑賞」ってことになってしまうように思う。それはそれでいいだろうけど、それだけでもないだろう、というのも、行為や作品には作者の見落としたものが必ず含まれるからで、そこから生まれるものをどういうふうに拾っていくのかも重要だと思う。そもそも、「つもり」なり「態度」なり「思想」なりを知りたいなら作者本人に当たればよいだろうし。また、作者重視または作者の個性なるもの重視が行き過ぎると、作者(の個性)=作品、「オレ(の個性)、すなわち作品」というような事態が起こってきて、そうなると、みんなが世界にひとつだけの花ってことになり、人間ひとりひとりがそれぞれ素晴らしい、ということになる。個人的には、そんなことを改めて聞きたくてアートやらなんやらに興味を持っているわけではないので、そういうのはたいへん困るといえば困る。ちょっと、おしっこを我慢して書いているので、このへんで。トイレに行ってきた。オウテカの新譜が3月に出るらしい。あと、プラグマティズム創始者という扱いの、パースっていう人は実在論者っぽい気がする。「真理」と「実在」についてこういうふうに定義しているとのこと。魚津郁夫「プラグマティズムの思想」第3章「パースの「探求」と真理」より孫引き。

探求するすべての人が究極において同意するよう定められている(fated)意見こそ、真理という言葉の意味するものであり、こうした意見によって表現されている(represented)対象こそ、実在にほかならない。

うーん、孫引き元がよく分からない。「世界の名著 48 パース/ジェイムズ/デューイ」というやつっぽいが、そのなかのどういう題名の文章からなのかが分からん。あとしゃっくりが止まらん。