ふぁcえぼおkで民主主義・デモクラシーについてちょびっと書いたあとに思ったのだけれど、以下のようなことを書いたのだけれど、

あと、ときどき思うんですけれども、民主主義・デモクラシーといったときに、価値の相対主義とか寛容とか個々の主観の尊重・重視とか、厳密にいうと民主主義・デモクラシーと関係のない概念もセットにしてイメージしてしまったりするのがちょっと気になります。民主主義・デモクラシーって、最低限の意味、厳密な意味でいうと、統治の仕組み、あるいは意志決定の仕組みであって、価値観ではない。調べてみると、価値観(思想)と仕組み・体制とを区別するために、デモクラシーとデモクラティズムという語の使い分けがあるらしいが、しかしたしかに、「私たち」という集団、あるいは「国家」の構成員全員=私たち全員が主権者です、という意味で、私たち全員に等しく、意志・意見を持つ権利があり、さらにそれをみんなの意志決定に反映させる権利がある、ってことなので、個々の意志・意見の尊重・重視と関係なくはないが、個々の意志・意見を尊重・重視することがそのまま民主主義・デモクラシーというわけではない。個々の意志・意見をどのようにみんなの意志決定に生かせるか、というのが、統治あるいは意志決定の仕組みとしての、民主主義・デモクラシーなのだろう。そしたら、デモクラティズムってなんだろうと考えてみたらば、ほとんど平等主義と見分けがつかない感じがする。。ちゃんと調べて、考えてみないとなんともいえないが・・。人権概念なり平等主義なりは統治の体制としての民主主義と密接な関係を持つが、民主主義そのものではない。けれど、平等主義をもって民主主義、デモクラティズムだ、というイメージがあるような。民主主義って、人権概念や平等主義を前提に、個々の意志・意見をどのように練り上げていきましょう、ということだと思うので、「みんな」としての意志の決定または形成といった意味で民主主義というのならば、みんなそれぞれ意志や意見があるよね、で終わってはいけないし、「どのように」練り上げるか、いまのように間接民主制でいくか、別の方法を探ってみるか、そこいらが面白いところなんだろうなと思う。つまるところ、みんなそれぞれ意志や意見があるよね、っていうのは、当たり前のことなので、それを民主主義とか言っちゃうと、平等主義や相対主義となにも変わらなくなってしまうので(その結果、物事が進まなくなるだけだったりするので)、ややこしいなと・・。

フェイスブックには「いいね!」ボタンがあって、いいね!と思った投稿にはいいね!を押す、ということになっていて、コメントでなんらかの内容のある反応をする時間がない、または反応の内容が思いつかないけれども、肯定的な感情を抱いたのはたしかなので、その感情だけ示したいというときに「いいね!」ボタンを押すということなんだろうなと理解しているのだが、それならば、「いいね!」ともうひとつ「よくないね!」とか「いやだ!」とか「きらい!」とかあった方がいいんじゃないかと思う。英語のフェイスブックでいえば「いいね!」は「Like」だからその逆は「Dislike」とかなのかもしれない。「いいね!」がどうおもしろいかというと、内容を伴わないからで、「どう」いいのかがまっったくない。なので、肯定の感情だけがやりとりされる。これはなんというか、内容が伴わない分、いっさいのノイズなしに好意のやりとりが行われるため、コミュニケーションにおいてややこしいことが全く発生することなく、ポジティブな感情、共感、好意が循環する。これが「いいね!」のおもしろいところであり、いいところ。ということは、なんらかの投稿に対して、「いいね!」の逆、違うだろ!とか、きらい!とか、いやだ!と思った場合どうするかというと、スルーする、見なかったことにする、無視する、しかない。もしくは、コメントでなにかしらの反論なり反応なりをするか。しかしコメントした場合、自分の感情をどう表すかむずかしい上に、それを表していいものかどうかもむずかしく、さらに相手との関係にもよるのでいろいろややこしい。そもそもが、批判なり反論なりというのは、きちんとお互いに「書かれた内容」に限ってのものだと理解しておかないと、単なる揉め事なり無理解なりなんなりになって、徒労感しか残らない。なので、「いいね!」のいいところは「きらい!」(が強すぎるなら「わからない!」でもいい)においても発揮されると思う。といっても、悪意が循環するのではなく、やりようによってはそうなるのかもしれないが、「そうは思わないな」という不賛成、不同意、疑問の存在を知ることで、その投稿をした本人が同じことについて違ったやり方で考えてみることを促したりするんじゃないかしらと。アマゾンのカスタマーレビューにはあるけど。このレビューは参考になりましたか?という質問に、はいといいえで答える。やはり、なんらかの投稿に対して、どういう意味でどう思いましたか、という限定は必要になってくるのかもしれない。好きか嫌いかでなく。同意と不同意だということが、意識されてればいいかなとは思うけれど、現状の「いいね!」は英語版と同じく「Like」=「すき!」みたいな感情なので、そのまま、すき!ときらい!でやっちゃうと、ぜんぜん成り立たないし、しんどそうだ・・。つまるところ、フェイスブックの「いいね!」ボタンはかなりいいけれども、それと同じくらいの気軽さで不同意や疑問が可視化されるとなおいいなあと。ちょっとした不同意や疑問でも、ちょっとしたかたちで見えるようになると、わりあいいいんじゃないかと思う。コメントで話し合うのは時間もかかるし大変だし、ちょっとした疑問の場合、そういう人もいるかな、で勝手に納得しちゃったりするし。納得というより、スルーに近いけど。というのをここに投稿したあと、フェイスブックに以下のような続きというか言い換えのようなものを投稿しました。

はてなダイアリーの方に、フェイスブックに「きらい!」「そうは思わない!」「不同意!」「わからない・・」ボタンのようなもの、ボタンだけど、があればなおいいなという話を書きました。いいね!だけでは限界がある気がするし、かといって、コメント欄できちんとお話するのもなかなか大変だったりするので、こういうボタンがあることで、不同意・不賛成が可視化されるといいなあと。あくまでかるい感じで可視化されるのがいいですが。「えー、そうかなー?」ボタンとか。なんらかの投稿にたいして、なにも反応しないこと(スルーすること)が「いちおう見た」と「無関心」と「不同意」と「まあそういう意見もあるよね」をも意味する、っていうのは、ちょっとややこしい。すこし積極的に「そうじゃないと思う」と思った場合のボタンがあれば、ちょっといいかもしれません。しかしかといって、積極的に「そうじゃないと思う」という気持ちが起こるには、たくさんの人と友達になっていないといけないと思われます。気の合う仲間だけだとなかなかそういう疑問なり不同意なりが起きない、というか、起きないように振る舞ってしまう。お互いに違うところがいっぱいあるにも関わらず、同じところを重視してしまうというか。ほんとは、気の合う仲間同士=お互いにお互いへの責任を持ち合う同士で、違う部分を発見し、いろいろ話し合ってみるのがいいんだろうけれども。気が合うかどうか不明な人との違う部分を発見し、いろいろ話し合ってみる方が実のところ、むずかしいから。お互いにお互いへの責任を持ってないから、いちいち関わるのがめんどうになるというか。自分との違いが分かりやすい見知らぬ人には、関わりに責任を持ちにくいから関わるのが面倒になり、近しい人には関わりに責任があるがゆえにお互いの違いについてなかなか話しにくい、というびみょうな問題。違いについての話しやすさみたいなことでいえば、○○つながり、みたいな、なにかのテーマにおいて気が合う、というような関わりではなく、つまり具体的なテーマにおけるつながりではないが、なんとなくひととして信頼しあっている、という関係が、ベストだろうなと、いまのところは、思います。