すいません、先日の「表象5」クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」に言及していることにつきましては、もともと日本のリレーショナルなアートについてちょっと思うところがあったりして、それを書くための枕でしかないみたいになってしまっていたのですが、つまるところ特に「敵対と関係性の美学」とあまり関係がないかもということで、しかしなんというかデモクラシーの問題なんだろうなといま思いましたが、改めて見てみたら明確にそう書いてました。

ただ私にとって疑問なのは、リレーショナル・アートの作品の「構造」が包含しているものをどうやって決定できるのかということである。そして同じく疑問なのは、この構造を表向きの主題から切り離すことは可能なのか、それとも構造はその文脈に浸透されてしまっているのかということである。
<中略>
そこでは、「関係性の美学」における関係の性質が問いに付されたりすることはない。「出会いの方が、その出会いを構成する諸個人よりも重要なのだ」とブリオーが述べるとき、私は先のような疑問が(彼にとって)不要なものなのだとわかる。なぜなら、「対話」を可能にするあらゆる関係性はおのずから民主的[democratic]であると見なされ、それゆえに良いものとされるのだから。しかし、この文脈において「民主的であること[=民主主義 democracy]」とは実際のところ何を意味しているのだろうか。

ラクラウとムフを引き合いにだしていることからもデモクラシーを問題にしているのは明らかではあるのですが、あとはリクリット・ティラヴァーニャの生み出す「関係」が原理的に排除を必要としていて、しかもそれが「関係」内部からは見えない構造になっているところを指摘したりとか。まあ確かに、ビショップの文章だけ読む限りでは、ビショップの言う通り、ティラヴァーニャとリアム・ギリックは「関係」それ自体を志向していて、サンティアゴ・シエラとトーマス・ヒルシュホルンは関係の「性質」を問題にしていると言えるのかもしれないけれど、なんというか、この4人を「リレーション」「関係」の名のもとに比較すること自体が無茶な感じがしなくもない。「リレーショナル・アートはリレーションをつくるアートです」と仮定するならば、ティラヴァーニャはストレートにリレーショナル・アーティストだけれど、シエラとヒルシュホルンはどちらかというとアート・アクティビストっぽい。うーん、こうなってくるとアートにおける「関係」ってなんやねん、ということになってくる。あらゆる形式の芸術はすべて観客なりなんなりとなんらかの「関係」をしとるがなと。関西人ではないのですが。で、こう考えてくると、リレーショナル・アートとデモクラシーがなぜ関係あるかが分かってくる気がする。あらゆる形式の芸術はすべて観客なりなんなりとなんらかの「関係」をしとるがなと書いたけれど、あらゆる形式の芸術と観客の「関係」の質(ほぼその形式が決定する、と思う)はそれぞれまちまちなのに対し(まちまちというか、むしろ権威的、というところから関係性の美学は出てきているのかしらな)、リレーショナル・アートは民主的な「関係」であることが前提になっている。ブリオーにしろビショップにしろそこは共有しているっぽいし。デモクラシーとオープンネスのアート。ほいで、ビショップはティラヴァーニャとギリックの生み出す「関係」より、シエラとヒルシュホルンの生み出す「関係」の方が『より良い民主的精神[デモクラシー]を表明している』と言いきっているけれども、どちらがより民主的かというより民主主義の限界なり問題なりを示すふたつの事例という感じではないのかしらな。現代の民主主義における参加民主主義と闘技的民主主義に対応するのではないのかしらな。どっちがどっちというより、それぞれ補いあわないといけないというか。なんか穏当な意見ですが。まあ溜まり場・居場所的な共同体が実は排除(ゾーニング?)に基づく場の安定で成り立っていたりする、というのは、たしかにそうなのかもなとは思いますが。だからといって、喧嘩上等!問題を直視せよ!っていうのもそれはそれで極端に行きがちで「排除(ゾーニング?)に基づく場の安定」とは別の意味合いで誰かを排除するというか置いてけぼりにしたりするので、、まあなんか穏当な意見ですけれども。溜まり場・居場所的な共同体をいかに開くか、というのがひとつの問題としてあり、まあそれを問題と思わない向きもありはするけれども(たしかに見方によってはまったく問題ではないだろうし)、しかし閉じているからこそ成り立っている溜まり場・居場所なのであってそれを開くっちゅうのも無理なはなしではあり、それ自体は閉じているそれぞれの共同体の間にできるだけブリッジを架けましょうっていうのは、穏当な意見なのだと思うが、ではどうやってどのようなブリッジを架けるかといったとき、結局「ハブ」とか言って個人の能力頼みになったり、あたかも「ハブ」が自然発生するかのように言ったりするけれど、これはこれでどうなのか。「ハブ」ってものすごく高コストの役割だし、なにかこう環境設定としてブリッジしやすいっていうのができたらみんな楽だとは思うけれども、誰がどんな意思と正当性を持って環境設定するんだよ、っていう問題もありはするし、ブリッジなんかない方がいいんだけど、ひきこもるのがなぜいけない、っていう人もいるだろうし、だから結局、全体で見てみると「ハブ」頼みがいちばんコストが低くて、かつ全体としては(選択の自由を残すという意味で)公平なのかもしれない。公平というか、個人の自由を尊重するというか。