選挙へ。選挙区のは共産党の人。比例代表みんなの党。なぜかといわれると、なんとなくとしか言えないが、なんとなくとしか言えないのがなぜかというと、政治について様々な情報を集めて自分で判断する習慣や方法を現時点では持っていないというのと、ただたんに、慣れてないから情報収集と判断のコストが高すぎるように感じられるとしか言えない。いまヤフーのサイトで「参議院選挙2010 マニフェストマッチ」というのを見つけてやってみた。行くまえに探せばよかった。テーマごとに党名を伏せてランダムに出てくる各党のマニフェスト(の要約?)を読み比べて選んでいくと、どの党のマニフェストをどのくらい選んだかが分かると。「医療・年金」と「外交・防衛」はみんなの党、「政治改革・憲法」は民主党、「経済政策」は共産党、「子育て・教育」は国民新党、「雇用」は新党改革、「行財政・税制」はたちあがれ日本、という結果。しかし、正直なところ、この結果が自分とマッチしているかは分からない。マニフェストの違いを分かって選んでいるかというと怪しいからだけれど、これも読み解く能力の有無と関係があると思う。抽象的な理念のレベルの話なら分かると思うけど、具体的な政策のレベルになるととたんに苦しい。その政策がどういう状態や状況を目指しているのかが見えなくなるのは、たんにそういう知識や想像力が足りないからだと思う。そもそも政治って分かりにくいものなんだろうなと思うので、政治家に向かって政治を分かりやすくしてほしいと言うだけではなんの意味もない。テレビのインタビューでみんな言うけど。それを言うからには分かろうとする努力がないとダメよね、たぶん。有権者は消費者じゃないよね、たぶん。政治を分かりやすくしろ、っていうのは消費者気分のクレームでしかない気がする。結局、誰かのせいにしたいだけだったり、誰かに助けてもらえると思いたかったり、する。お客様は神様です。有権者は神様です。女性党の略称は女党。山賊みたいだな。おかしら!とか。今日の早朝のNHKで、もう着なくなった思い出の服を帽子に仕立て直す、ということをやっているおばさんというと語弊があるか、女性が高松にいる、という番組というかいちコーナーをやっていて、娘が結婚するから小さい頃によく着せていたワンピースをウェディングドレスに合うような帽子に仕立てて欲しい、という依頼者が来ていた。見ていてふと、これってアートって言っても成り立つよな、実際こういう「思い出」系アートはいっぱいあるし、誰かやりそうなことでもある。思い出再生みたいな。他人の思い出とか。でも、思い出の服を帽子を仕立て直している当人も周りもそれをアートと呼んでいなくて、それが当たり前だよな、ふつうに考えたらいちいちアートと呼んでアートとしての価値をくっつける必要はないよな。と思う。だから、この女性の活動はアートではない、のではなく、アートである必要がない、と言える。アートと呼ばなくてもじゅうぶん成り立つ、というか。そう考えると、思い出の品を作品にします、とか、思い出を集めます、みたいな「思い出」系アートってなんなんだろうか。思い出の服を帽子に仕立て直す活動がそうであるように、基本的には当事者のなかでの感動だとか考えるきっかけだとか、が主になる。それをハタから見てもとくに面白くもない。だから基本的には「思い出」系アートは、参加するものであって、見せるものじゃないと思う。見せるだけだとしても、想像での追体験という体裁をとる必要がある。なので、「思い出」系アートはアートである必要がないと思うのだけれど、それはアートじゃないということでなく、アートの枠組みの中にいようがいまいが、その作品なり活動の内容はアートという枠組みと関係がない気がする、ということで、つまりアートの枠内に入れるかどうかは完全に作者の選択の問題というか、内容自体がアートの枠組みを求めるというより、作者がその内容をアートの枠組みに入れたいと望んでいる、ことになる気がする。あと、思い出系アートはベタベタしがち。どうしても。人と関わるだけでなく、人の思いに関わるから、これはしょうがない。そもそも、そのベタベタが大丈夫な人しか思い出系アートには参加しないだろう。それはちょっとどうなんだろうとも思う。あ、でもルールというか手続き重視の作品で、結果的に思い出も出てくる、みたいなのは、アートの枠組みと関係あるといえるのかもしれない。いえたところで、結局のところアートの枠組みに守られているだけなら、それはそれでどうかという問題もあるふうでいて、実はアート内ではそれは問題ではない気もする。あとは、アートでなくてもいいものをアートの枠内に入れることで、アートの活性化みたいなことは起こるのかもしれないけれど、個人的にこれにはそんなに興味ないかもしれない。すごい、めっちゃアートアートいってる。そういえば、去年やった「プロフィール展」なんかは「人の思い集め」の最たるものだな。とはいえ、思いを集めるというより、思いっていうのは当人にとってはものすごく重要な唯一のものでも、赤の他人にとっては平凡でありきたりのしょうもないものでもある、というごく当たり前の状態を発生させる、みたいなことかもしれないけれど。