一昨日と同じく11時〜20時の労働。頼まれごとの最中に、うっかり脚立から後ろ向きに落ちてひじと手のひらと腰の右っかわを打つ。どすっとにぶい音がする。体育館みたいな素材の床。コンクリじゃなくてよかったのか。1メートルくらいの高さなのでたいしたことはない。後ろ向きに落ちる瞬間は後ろ向きなだけにわりとやばいかなーと思ったけれど、別にそうでもない。打った場所の感じでいえば、うまいとこ受身をとったのかもしれない。ハンナ・アレント「人間の条件」第二章「公的領域と私的領域」から気になっていた箇所を引用。ポリスの生活について。

貧困あるいは不健康であることは、肉体的必然に従属することを意味し、これに加えて、奴隷であることは、人口の暴力に従属することを意味した。この奴隷状態の二重の「不幸」は、かりに奴隷が現実に主観的には豊かであったとしても、それとはまったく別のことである。このため貧しい自由人は、定期的に保証された仕事よりは、日々変わる労働市場の不安的のほうをむしろ好んだ。定期的に保証された仕事は、毎日自分が好む通りのことをする自由を制限するから、すでに奴隷的(douleia)と感じられ、多くの家内奴隷の安易な生活よりも、むしろつらく苦痛の多い労働のほうが好まれたのである。

さて、引用の後半部分、なにやら思い当たるフシがあるけれども、いまの状況において、「日々変わる労働市場」に「毎日自分が好む通りのことをする自由」はあるのかどうか。「定期的に保証された仕事」と「日々変わる労働市場」の違いは、不自由を前提にした自由か、不自由を選ぶ自由か、だけのような気もする。選択の自由だけが自由ではないだろうし。そもそもそれらの「自由」は、階層が違う気もする。