昨日書いたことにひとつつけたすならば、『定期的に保証された仕事は、毎日自分が好む通りのことをする自由を制限するから、すでに奴隷的(douleia)と感じられ、多くの家内奴隷の安易な生活よりも、むしろつらく苦痛の多い労働のほう』を好む貧しい自由人は、とにかく手段にこだわりたい、また、自分を「自由」だと思いたい、自己愛的な空想家なんじゃないか、ということ。自分のことに照らし合わせてみて、こう思う。困ったもんだ。11時〜21時まで労働。今日は脚立作業なし。気泡抜きとか。無になれる、という人もいるが、そうでもないと思う。草むしりみたい。いや、無になれるといえばなれるのかも。毎回依頼がくるのであれば、展示設営請負会社とかつくったらよいのかもしれないけれど、技術やスピードがあるわけではなく、なんでも頼みやすく「安い」というのだけがとりえなので、やめておいた方が無難。そもそも手作業は得意じゃない。なんでもやればできるものだけれど、とはいっても「無理やりやれば」できるというだけで、うまくできるわけではない。帰宅後、塩サンマの炊き込みご飯と豚汁、ナスの煮びたし。姉ちゃんがつくって、私と妹は食べるだけ。妹はこれに加え自分でコンビニギョウザを買ってきていた。浴槽で、アマルティア・セン「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」のセンによる講演論文の部分を読了。訳者による解説を1/4ほど読んで、汗だくなのであがる。