あ、アートなるものを(なんらかの目的・欲求を満たす)手段として使っているという意味では「お稽古事」も同じだし、「趣味」っていうのもそうで、だからこそ自分がやっているのは「お稽古事」や「趣味」であると判断している(外からのプレッシャーによりそうせざるを得ない?)人たちはことさら自身の活動を「アート」だとか「創作」だとか言わないということなのだろうけれど、そのような謙虚な、謙虚すぎる、ときには謙虚すぎて自分で自分を抑圧しているようにも見える、人たちがいる反面、自分の活動を正当化する大義名分として「アート」とか「創作」とか「文化」とかやたら大声で主張する人もいる。自分のやっていることはこのように(どのように?)「アート」でありますので価値があるのです、ということなのだろうけれど、ある(創作)活動が価値を持つかどうか、またはどのような価値を持つか、というのは、制作者と作品と受容者それぞれの属する価値基準が照らし合わされた結果でてくるものだと思うので、価値があるかとかどういう価値があるかっていうのはあらかじめ決まっていない気がするのだけれど、それが決まっているように見えるのは制作者と受容者が「期待」でもってお互いを選別しているからかなとも思う。このまえNHKを見ていたら、どこかの地方のおばあちゃんたちがやっている演劇のことが取りあげられていて、たしか福祉関係の番組だったか、ということはいわゆる「演劇」として面白いから取り上げるというよりも、おばあちゃんたちが演劇を通して生きがいを見つける、という視点から取りあげられているということで、司会の人が「見てて元気をもらいました」と言っていたけれど、これはおばあちゃんたちの「演劇」を見て元気をもらったというよりも、演劇を通して生きがいを見つけていくおばあちゃんたちの姿を見て元気をもらったということになる。そもそも当の「演劇」の内容はまったく出てこない。なので「生きがいを見つける」という機能としてみれば別に「演劇」でなくても構わないのだろうなと思う。ハンドベルであろうが、山登りであろうが、川柳であろうが、ゲートボールであろうが。おそらく重要なのは「集団で行なうこと」と「個人の創意工夫を取り込めること」の2点だと思う。おっ、いま書いていて「演劇」であることの必然性がすこしあるような気がしてきて、演劇の「役」というものがわりと大きいかもしれない。個人の創意工夫の受け皿としても集団への帰属意識の受け皿としても。まあ他の集団的なスポーツにもポジションというものがあるけれど。そういえば認知症についての本を読んでいてお年寄りが集団生活する「グループホーム」のはなしが出てきて、どんなものでもよいから「役割」を見つけてもらうことが大切だと書いてあった気がする。その集団内での自分の役割を発見し引き受けることで帰属意識であったり意欲であったり自尊心であったりが適切なかたちで発揮されると。「ここにいてもいいのだな」と思えることが大事っぽい。「個性」じゃなく「役割」というのは、実践的だなと思う。「個性」というのはひどく抽象的で、だからか主観的なものになりがちで、社会性を発揮するうえの土台としてはまったく使い物にならない。自分の個性を発揮しよう、っていうのも、理想の自己イメージ(あくまでもイメージでしかない)への同一化のための自己暗示もしくは同類間の自己暗示のかけあい、以外の意味はまったくないと思う。そもそも「個性を発揮しましょう」みたいなことはいつどこでだれがどのような意図をもって言ったものなのだろう。個性っていうのは目的なのだろうか。自分の身体的・文化的・地理的条件を超えたところで「個性」なるものがふわふわ浮遊しているのはいったいなぜなんだろうか。個性っていうのは選択するものなのかしら。さいきん、「消極的自由」と「積極的自由」というのを知ったのだけれど、「夢を持て」「やりたいことを持て」「意志を持て」「志を持て」というような物言いに違和感を憶える理由がすこし分かった気がした。いま列挙したような物言い、というか典型的な「近頃の若いモンは・・」的説教だが、は明らかに「積極的自由」の勧めに当たると思う。そしてそれがなぜイヤかというと、そうしないこと、そうできないこと、を許さないからだと思う。そうしないでいると(そうできないでいると)なんらかの原因によりできないのでその原因を排除すべきである、というふうになる。勝手にこちら側に原因を探し始める。よくて「社会」とか「時代」とか「歴史」に原因を探し始める。当の「夢」「やりたいこと」「意志」「志」などがいったいどういう概念なのかなにも議論されないまま(個々の状況や条件に規定されるものか、時間空間に左右されない普遍的なものか、そもそも自分だけで選び作るものなのか、ある個人が夢・やりたいこと・意志・志を持っているかどうかをどのように判断するのか、などなど)曖昧なイメージだけでとにもかくにも「よい」ものである、というふうに判断されていて、「夢を持つのがいちばんよい」「やりたいことを持つのがいちばんよい」「意志を持つのがいちばんよい」「志を持つのがいちばんよい」というのが絶対に動かせない前提になっている。こうなると結局のところ、たんなる他人への強制、抑圧としてしか働かない。こういうのまえにも書いた気がする。でも私自身もまえに「変化する自由」とか言っていてこれも「積極的自由」だな。変化しない/できないのは不自由だと言っているわけだから。まあ単に「自分を守る」ことに全力を使うか、それ以外のところにも使うか、ってことかもしれない。社会の構造的に個人への精神的負担が減れば、過剰に自分を守ろうとする必要もなくなるのかもしれない。あ、「社会」に原因を求めてしまった。wikipediaの「消極的自由」の項より。なんだか分かりにくいけど。「本来の自己」のあとに()で入っている内容を注釈として後ろに移動する。

積極的自由は主として消極的自由に対して、それが形式的な自由を与えるものであっても、現実には大多数の個人に対しては不自由をもたらすものであり、何ら結果や、自己の意志の及ぶ範囲の実質的な保証・拡大をもたらさず、実質的には自由の名に価しないという観点、また観念的、権利上の許可、純粋な禁止の不在に過ぎないならば、ただ想念のなかのみの自由ではないかという観点から対立する。


消極的自由の観点からの積極的自由への批判は、積極的自由が自己の意志に従うことができることによって規定されることから、その「自己」が「我々」や「投影された自己としての理想的他者」、あるいはより一般的には「本来の自己」*に横ずれすれば、真に自己の意志に基づいてなされた行為までも規制することが可能となり、パターナリズムの一種に他ならない、また、特定の立場の人々の自己実現を容易にするために、他者の自由な行動を犠牲にすることを容認する結果となる、などの理由から容易に他者による支配を肯定してしまうという議論が代表的なものである。


*経験的に現に表明されているそのひとの意志が、そのひとの本当の、あるいは本来の意志とみなしてよいか、という議論から想定されるものであり、この点を認めるかどうか、ということは非常に重要な論点を為す。認める立場からは、たとえば十全な判断能力には、最低限の、しかも適切な情報と心身の最低限の健康が必要であり、それらを欠いて形成された見解、主張を本人の「本来の」意志とみなすことには限界がある、といった議論が可能である。