日曜日はFLOATにて「Seeレーベルオープニングライブ」。地下鉄中央線の車中にて、初めて「今行処」に投稿してみる。イベントに行って、イベントの内容とはべつに思ったことは、人々は、自身の属する文化のカテゴリーによって、部族(階級、、じゃないか)ごとに、分類・分断されているんじゃなかろうか、ということ。文化のカテゴリーは、ひろく、ファッションやライフスタイルやなんやかやをふくむ。たぶん。あと、内容で思ったのは、表現の「クオリティ」とか「完成度」とかいう漠然とした概念で指し示されているのは、「世界観の統一・整理の度合い」くらいの意味合いのものなんじゃないかしら、ということ。言い換えれば、ややもすれば、ファッションと同じことになるということ。オシャレかどうかっていうのは、なんらかのスタイルとして統一・整理がされているかどうか、だったりする。トップス、ボトムス、シューズ、アクセサリー、バッグ、やなんやかなやの各カテゴリーに属する各アイテムにはそれぞれが表象するスタイルやイメージがあって、それらが、うまく調和するようにコーディネートできる人がオシャレさんである。ここでいう調和・コーディネートとは、あるスタイル(世界観)を各アイテムの組み合わせによって正確に表現できているかどうか、という意味合いでしかない。もちろんそうじゃないオシャレもある。アイテム間の思いもかけない組み合わせをして、新たなスタイルを生み出したり。表現の「クオリティ」や「完成度」もそれと同じ。ロラン・バルトがモードについて、記号の組み合わせだ、みたいなことを言っているらしいということを思い出した。それと、音楽のライブは演奏者を見なくてもいいのがいいな、ということ。見ないと分からないのもあるけど。ともかく、「Seeレーベルオープニングライブ」はよいイベントだったと思う。Sonir−Torch−Moskitoo−たゆたうの順番。Sonirはなんという人かは忘れたが、DSPの開発者とのコラボレーションらしい。ときどき妙にいかついエフェクトがかかっていたのは、その人の仕業なのか。前半はランダムと非ランダムの中間みたいなタイミングで発されるシンセ音が増えてきてだんだんキックも混じる。後半はSonirこと魚住さんのキーボードと電子ノイズが絡む感じ。ちょっとずつちょっとずつ叙情性を潜ませていく構成がよかったと思う。静かな電子ノイズだなと思っていたら、いつのまにかジャジーなキーボードが入り込んでいるというような。最初から最後まで、あまり演奏者の方は見ていなくて、川沿いの塀に登って周りの風景を見ていたのだけれど、風景を見て音楽を聴く感じがなかなかよかった。Torchは、大谷君がSJQで長野やったかな、に演奏に行ったときに共演して感銘を受けたらしく、自分でレーベルをやるきっかけになったバンド、ユニット?男女ふたり組。男性は歌とギター、女性は歌とおもちゃのキーボードとそれと似たような音のでるおもちゃいくつか。男性と女性のあいだに、鳥の巣箱のような木でつくった家があり、Sonirの演奏後にうっかり、なんだこれ?と中身を見てしまったのだけれど、中身はMDプレイヤーかなんかだった。というわけで、プレイヤーからバックトラックを流しつつ、歌とギターを重ねるというライブスタイル。男性の方は、曲間のMCでなんだかやたらにアハハと笑う人で、でもライブ中とかライブ後にしゃべるとなったら、なぜか笑ってしまう、というのはよく分かる。あと、曲間でプレイヤーを一時停止にしているので、MCのあいだ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、とずーっと鳴っている。そしてそれがスピーカーからも出ている。停止にすれば、これは鳴らないのだけれど。Torchは思っていたよりも、かなりロックだった。気がする。男性の歌が味わい深かった。歌い方によっていろいろ声が変わる。バックトラックを流さずに、生ドラムとサポートメンバーだったらどうなるのかなと思ったが、たぶんそれだといろいろ損なわれてしまう気もする。ふたりだけ、というのになにか意味がある気もする。自分たちのできる範囲で、というのに意味がある。猫と遊んでいたら、Moskitooが始まりそうなので、戻る。なにやらcubicmusicの杉本さんらしき人がいるなあと思っていたら、実際に杉本さんで、Moskitooのサポートでギターを弾いていた。Moskitooさんは歌とコンピュータとオルゴールとか鉄琴とか。杉本さんはギター(エレアコ)とエフェクター。Moskitooは音楽性もさることながらご本人の雰囲気やなんやかやにいたるまで、かなり統一・整理されていて、完成しているなあという感じを受ける。オルゴールの音をマイクで拾うときに何回もハウリングしていたが、あれは意図的なものだったのだろうか。音楽を聴くというのは、非日常的な体験なのだと、なんだか分からないが、改めて思った。音楽のそういうところが嫌だというのもあるけれど。集団催眠、集団幻想みたいな。でも、それぞれの音楽でそれぞれに違う幻想を与えている、だけなのかもしれないし、音楽はそういうものなのだと思う。たゆたうは、初めてみる。にしもとひろこさんのソロは、ポコペンでのみやけをさんの企画で共演したときに見たけど。にしもとひろこさん一人でもすごかったのだが、それにイガキさんという女性が加わるとどうなることやらと思ったが、ふたりになるとボケとツッコミみたいな感じで、すごみが増す。たゆたうは、いわゆる「記号的な」世界観の統一・整理とは無縁な気がする。オリジナリティとかいうのはもはや無意味で、なんだかわからないが、とにかくスケールがでかい。なんだか分からない遠い国の民族音楽のようでもある。イガキさんがいろいろと細々したおもちゃをときおり使うのだけれど、シンプルに、にしもとさんの歌とギター、イガキさんの歌とヴァイオリンでもいいのかもしれないと思ったが、そうなると内容も見え方もかなり違ってくるので、いまのままでよいのだと思いなおす。あと、geco-ya食堂さんの、にんじんと蒸し鶏のサンド、美味しかった。にんじんの卵焼きも食べた。ナスとピーマンも食べた。どれも飾らなくて美味。FLOATの壁には、SEEから出たMoskitooの7インチのジャケの絵が一面に飾られていて、すべて一枚一枚違う。西尾早苗さんという画家が描いたものとのこと。整然と貼られているのが、何枚か売れて、欠けていく。今日は、丸ビルのタワレコでglimpseの新作を視聴。なんというか、すくなくとも、ミニマルテクノ、というわけではないのかもしれない。ニューミュージックコーナーがどこかに移転しているようだけれど、どこにかは不明。三番街のインデアンカレーにて、レギュラー・たまごで。780円です。1000円お預かりします。220円のお返しです。香山リカさんの「しがみつかない生き方 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール」が平積みになっていて、手にはとってみたものの、読まない。言いたいことはものすごくよく分かるが、こういう言い方はしたくない。と思うと思う。その後、岩波・ちくま学芸文庫の方に行くも人がおおいので、平凡社ライブラリーのよこを通ると、バートランド・ラッセルの「怠惰への讃歌」というエッセイが出ている。ポール・ラファルグ「怠ける権利」も平凡社ライブラリーだ。社会学コーナーで平積みになっていた、山田真茂留「〈普通〉という希望」が気になって、ちらっと読んでみて、置いた。その後、左へ移動していくと、著:大磯仁志、監修:清水雅博「倫理・哲学の特別講義」というのがあって、内容はあまり見ていないが、装丁が気になり調べてみたところ、大島依提亜さんの装丁。ときどき、たまにか、見る名前。山田真茂留「〈普通〉という希望」を買ってみる。目次は、「第1章 〈普通〉幻想のゆくえ、第2章 私秘化する感動体験、第3章 若者文化の宴の後に、第4章 「私」の専制、第5章 集合的アイデンティティの現在、第6章 信頼社会の回復に向けて」。『「自分らしさ」の獲得や社会的成功を生きる指標にしたことで、困難に見舞われ、むなしさを感じて苦悩する人々の現状を身近な事例を導きの糸にして描き出し、〈普通〉〈常識〉の希望に満ちた可能性を、シニカルでニヒルな姿勢からではなく真正面から探る。』とのこと。ほんとかな。ハンナ・アレント「人間の条件」は「第二章 公的領域と私的領域」を読み終えて、「第三章 労働」に入る。ギリシア人が奴隷を必要としたのは、生活の必要に囚われないためだ、というのがわりと興味深い。そしたら、いまの人間は、ひとりの人間が、主人と奴隷の二役をこなさなければならなくなっていることになる。奴隷としての自分の主人であり、主人である自分の奴隷である。奴隷は労働し、主人は活動する。