青汁の粉末をマンゴーをベースにしたミックスジュースで割る。オレンジとグリーンが混じって沼っぽい。頭が痛くすこし熱っぽいので風邪薬を飲んでみる。まだ効いてこない。そういえば、今日の行きの電車で読んでいたハンナ・アレント「人間の条件」にちょうど「苦痛の欠如」とか「苦痛からの解放」というようなはなしがあった。第三章「労働」の15節「財産の私的性格と富」のなかに。今日は、『住宅完成見学会+小さな作品展 [浜寺の家]』関連企画、西尾勝彦さんと松根摩耶さんによる詩の朗読会「at home」を三宅さんと。三宅さんは出品もしているので、搬出も手伝う。詩というと、なんだか現実離れした空想みたいなのとか、作者の情念みたいなのとか、そういう強烈な作者の「表現!!!!!」みたいなイメージがあったりもするけれど、そういう強烈な自己表出ばかりというわけではないのだなあと思った。なんというか、エッセイのようでもある。詩のようなエッセイのような、という意味で、高橋悠治さんの文章の書き方を思い出したりもする。散文詩??西尾さんの、ヘビの詩、古本屋の詩、松根さんの風の詩が印象深かった。どちらも、自分の体験した出来事を切り取って、簡潔な言葉でまとめてある。読まれる詩の印刷された簡単な冊子があらかじめ配られた上で朗読されるのだけれど、なんというか、教科書を見ながら、先生が読むのを聞くときと似ている。音読より黙読の方が早いのだけれど、その点はどうなのだろう。あらかじめテキストが配られているので、どうしても、テキストを(目で)見ながら朗読を(耳で)聞いてしまうのだけれど、さっきも書いたように目(黙読)の方が早いので、朗読を聞くことがあらかじめ読んだテキストの確認みたいにもなる。なので、テキストはあまり見ずにまず朗読を聞くようにした。あとでテキストで確認する。とはいえ、テキスト配布なしの朗読だと、間がもたないというか、聞いている方が飽きてしまったり、するのかもしれない。しないかもしれない。ここまで書いてきて、あくまで主役は、朗読者=作者ではなく、書かれたことばなのだ、という意思表示のようにも思えてきた。テキスト配布なしの朗読だと、ことばよりも朗読者の振る舞いの方が前に出てきてしまうのかもしれない。「浜寺の家」は、両隣が家(右側は建設中)、前が道路、後ろが小さな神社、さらにその後ろが教会、という立地で、後ろに大きな窓が開いている。中に入ると、上下左右「木」という空間で、とはいえ奇抜な感じは受けないけれど、よくよく考えたら、住宅でそういう体験はしたことない気がする。設計者のナカオアキヨシさんのブログにて写真がアップされているので、興味のある方はぜひ。→http://exakiyoshi.exblog.jp/ 敷地の様子や模型の写真、図面はここに。→http://www.cooplanning.sakura.ne.jp/works/2009/07/post-3.html 「壁」兼「棚」という壁面がなにやら使いがいがありそう。「壁」兼「棚」というか壁の構造がそのまま棚になっているというか。掃除は大変かもしれないけれど、別にできないことではないし。そういえば、蛍光灯がなかった気がする。なんと呼ぶのかは分からないけれど、丸い電球が天井からさがっていたり壁についていたり、いろんなところから光をおくる。外観は屋根が道路の方に少しだけ傾斜した白い立方体。白い立方体といっても、窓がぽこぽこ開いていたり、外壁のつなぎめ、なのかどうかは分からないけれど、外壁に上下左右に等間隔にラインが入っているので、視線のとっかかりのない白い立方体が住宅地に突然あらわれた!みたいな違和感はあまりない気がする。素人なのでなんともいえないけれども。あとは、1階、中2階、2階みたいな、スキップフロア形式というらしい、構造と、てすりにつけられたネットと、2階の子供部屋の入り口や窓に使われている曲線と、から受けるイメージなのだろうけれど、森林公園のアスレチックみたいな、そういう楽しい雰囲気がある。これからどういうふうに使われていくのだろうなあ。楽しそうだな。薬が効いてきたので、さっさと風呂に入って、寝よう。あ、あと、詩の朗読を聞きながら、朗読されている詩の内容とまったく関係のないことを考えてしまっていて、「表現」っていうものは、自分はこうしたい、とか、自分はこういう考え方で生きたいとか、そういう行動指針とか考え方とか価値観とか、まあぜんぶ同じ意味だけれど、そういうものをいったん目に見えるかたちで自分のそとに出すことで、自分に見えるようにする行為なのかなと思った。とにかく、まず、自分の思考なり感覚なりを自分に見えるようにするものだと。そして、自分で自分に見せる、すなわち、鏡に映った自分を見る、ということは、ついつい自分に対してかっこつけてしまったり、するということでもあって、この傾向は、自分で自分に見せるの次の段階、「自分で自分に見せる」を他人に見せる、という段階になると、さらに強くなる。他人からよく見られたいとか、他人からこういうふうに見られたいとか。「表現」が一種の「服」のようになる。記号になっていく。そうなると、自分で自分に見せる、という過程がぜんぶ吹き飛んでしまって、自分を他人に見せる、しかなくなる。「表明」になる。で、その見せる自分は着る服によって、いかようにも変えられる。そういう行為をも「表現」といいだすと、ちょっとややこしくなるが、どのような「表現」にも潜む要素ではあるので、切り離せない。表に現す、ということは、他人に見えるものであると同時に、自分にも見えるもので、その二重性がたぶんおもしろいところなのだと思う。だから、どっちかだけに偏りすぎると、あまりおもしろくなくなるのだろう。どうだろう。当たり前のことではあるなあ。個人的には、自分の感情や価値観や考えを「表明」するタイプの表現よりも、自分用につくった工具や遊具をおすそ分けするタイプの表現の方に意義があるんじゃないかなと思う。自分のためにつくっているので他人にとって使い勝手がいいかどうかは分からないけれど、部分的に流用したり、全体的なベクトルを流用したり、いろいろ使い道はなくはない。そういう意味で、おすそわけ。お口に合うかどうかわからないけれど・・という意味でのおすそわけ。自分の感情や価値観や考えの表明でもって大衆を酔わせるようなカリスマは今後はたして必要なのか?ということでもある。そして、「おすそわけ」にはふつう、対価を求めない。おすそわけにおすそわけ返しすることはあるだろうが、現金で交換することはありえない。