昨日の、『自分が誰かの表現をみるとき、「自分がその作者だったら」という視点で見ているかもなあ、ということで、そうするとわりあいなんでもおもしろい。』というのは、微妙に曖昧な表現で、もうすこし正確にいうと、他人の表現を自分のものとして見る、ということだと思う。ややこしいのが、自分の所有物として見る、というのでも、自分が為したものとして見る(作者になりきる)、というのでもないことで、おそらく表現行為や表現物というものは、そもそも誰かに所有されるような性質のものではないからなのだけれど、だったらなんなのかというと、たとえば、掛け算の仕方とか、帰納法とか、そういう抽象的かつ一般的な、思考と実践のための道具だと思う。なので、私にとっては、「美」の直接的な現れとしての芸術作品、というのも分かりはするけれども、あまり重要ではない。いやいや違った、「美」が関係ないわけではなくて、「道具」と「美」は同じものの異なる側面、ということか。ここでなぜ「道具」と「美」を出したかというと、それ以外のものは、人々に広く共感されることはあっても、広く共有されえないと思っているからで、共有=共に有する、と、共感=共に感じる、はすこし違うんかなーと思う。感情を共有することが共感であるので、共感という概念は共有という概念に含まれる。そもそも共感という次元はすこしややこしくて、他人の感情を共有する、という意味ではあるけれども、自己の感情を他人に投影して他人経由で自己を確認する、というのも、いちおう共感になってしまう。共有にはそういう曖昧さはなくて、というより、他者を必要としないので、自己と他者のあいだのややこしさがない。共有は、対象とそれぞれの自己。共感は、対象を介した自己と他者。さっき気付いたことに、私の趣味は、読書と考え事に加え、見知らぬ町をうろうろすることもあるなあということで、今日は東大阪のあたりをうろついていたのだけれど、見知らぬ町をチャリなり徒歩なりでうろつくのは楽しい。私が知らないところにも人間の生活があるんだなー、という確認。と同時に、こんなに世界が広いのなら、これは私の手に負えるものではないなー、という確認。手に負えるといっても、なにをするわけでもないけれど、なんというか、私抜きでも世界が進むというまったく当たり前のことについて、ものすごく頼もしいというか、とにかく大丈夫なのだなと思う。みんなすごいなーと思う。これは非常にうれしいことだ。なんのこっちゃ分からないが。こういう感覚は、芸術作品ではあまり感じられないもので、いや小説ではあるな、小島信夫さんのやつとか、ともかく音楽や美術ではまだ感じたことがない。いや、そうでもないかもな。音楽でいえば、高橋悠治さんのピアノと朗読を見たとき、にしもとひろこさんのうたとギターを見たとき、なにか自然現象を見ているような気分になったが、音楽はそういうものかもしれない。いや、音楽というより、「人間」を媒介として現れる芸術の場合は、かしら。どちらも「ライブ」で、「声」というファクターがあるのは偶然なのか。個人の表現なのだがもはや個人ではない感じ。美術でいうと、どうやろか、あんまり見てないしなんともいえないけれど、直島、地中美術館のウォルター・デ・マリアのは、「なんだかわからんがそうなのだな」と思った。これは、自然現象を見るときとあまり変わらないかもしれない。台風が来て雨と風がすごい時など「なんだかわからんがそうなのだな」と思う。もちろん、そういう感じを受ける作品だけがすばらしいものだというわけではないけれど、とりあえずすばらしいもののひとつだとは思う。ちなみに、当たり前のことだけれど、自然現象を模したものを見ても、自然現象を見ているような気持ちにはならない。現象として複雑かどうかはおそらく無関係なのだろう。あと、青木淳さんが「ルールのない表現は嫌だ」というようなことを言っていたか書いていたか、していたのだけれど、これは同感。付け加えるなら、「その人なりの」と付け加えたい。ルールのない表現というのは厳密にいえば存在しないのだけれど、存在として「ない」のではなくて、見る側に感じられ「ない」ものであったり、作る側が意識してい「ない」ものであったり、そういう状態として「ルールのない表現」は存在する。ある程度の範囲であっても広く認知されきったルールのもとで、もはやルールをを意識することなく生み出された表現に、はたしてルールがあると言えるのかどうか。ルールではなくルールに含まれる可能性のひとつとしての表現、もっといえば単にルールのなかでの限定された多様性のための変数としての表現に、ルール自体を変えていく力があるのかどうか。ルールに飼い殺しにされるのがオチなのではないのか。ああ、だからルールを見て見ぬふりするのか。そうか、そりゃそうか。ルール自体をつくる遊びってものすごく難しいし、ルールのなかで遊んどいた方が楽チンで楽しいしな・・・。メタ「ルール」的な遊びもすでに飽和しているんだろうしな・・・・。明日は、ばあちゃんのうちに坊さんが来るので、たぶんお盆のなんやらだと思うけれど、その立ち会い。ばあちゃんひとりでは無理なのです。お茶を出したりお布施を渡したり。去年はかなり遅刻してきたなあ、あの坊さん。だからけっこう急いでて、お経を上げてお茶を飲んですこし話したら、もうそろそろ行かないといけないので、あの、ほら、例のアレを、もう行かないといけないけど、ほら、アレをもらわないと行けないでしょ、という感じで、急いでいた。あと、「任侠ヘルパー」という草なぎ剛さん主演のドラマをやっているが、あれがどういうつもりなのかがよく分からなくて、いや、老人介護というテーマでさえエンターテインメントになっちゃうんだなーというのもあるけれども、そもそも制作スタッフや演じている役者さんたちはどういうつもりでやっているのだろう。介護の辛さを〜とか、思っていたらびっくりだけど。これがドキュメンタリーであっても事情は変わらなくて、悲惨さをどこかの誰かが知ったところで、悲惨なことには変わりはないし、具体的な誰かの悲惨さをその近くの人たちが知ることには意味があるけれど、どこかの誰かの悲惨さを別のどこかの誰かが知ったところでそれは単なるエンターテインメントにしかならない。介護の深い問題とやらを考えてみるというエンターテインメントを味わいたい人たちのものでしかない。そもそも、ヘルパー+任侠という突拍子もない設定なので、介護として「あるあるー」という感じにはあまりならないし。いや、なくもないな。でももっと理不尽でもっと暴力的だ。実際にときたま老人介護のプロの人たちを見るけれど、プロの人たちといえど、それを受け入れられているわけではないっぽくて、それぞれに自己防衛をやっている感じ。いちばん現実的で一般的なのは、賃仕事と割り切って老人を別世界の生き物として扱う、くらいで、これはもうしょうがないとすら思う。けど、プロがそれかよー、とも思う。けど、気持ちは分かる。プロとかなんとかいう問題でもない。じいちゃん・ばあちゃん、特に認知症のじいちゃん・ばあちゃんは、実際には幼児に近いとも言えるが大人でもあるという感じで、わりと家族ですらしんどいのに、家族じゃないヘルパーさんはさらにしんどさのハードルが低いだろう。認知に障害があるので、私たちと共有する前提が非常にすくなくなる、どうしても。だから、じいちゃん・ばあちゃんからしたら当たり前のことが、こちらには理不尽で暴力的にみえる、ということが起きてしまう。とりあえず、ヘルパーという職業は、忍耐強さとかいうよりも、じいちゃん・ばあちゃんに対する尊敬や感謝の気持ち、というのがないと、ぜったい無理な職業だなーと思う。つまり、まず「自分の」じいちゃん・ばあちゃんに対する尊敬や感謝の気持ちがないと無理。しんどいしんどい言うのもどうかと思うけれど、実際にしんどいし、「それでも得るものがある」とかいうふうなことは、あまり言えない。得るとか得ないとかいうよりも、単に、終わり良ければすべて良し、というか、じいちゃん・ばあちゃんに、人生の最後になって楽しくない思いをしてもらいたくない、というだけだと思う。「任侠ヘルパー」、ふつうにドラマとして見たらそれなりに面白いけれど、初回で提示された伏線で最後までの展開がなんとなく読めてしまうので、そういう意味では、つまらない。草なぎさん演じる任侠が、ハートフルバードっていう会社の社長(と、そのやりかた)への反発心がきっかけで、俺が理想の介護施設をつくってやるぜ!となって、なんだかんだすったもんだあって、最後にはその社長も考えを改める、みたいなやつなんだろなあと。