今日、以下のような文章(山本握微さんのくだりから下をのぞく)を書いていて、文章を書くっていうより書きながら考えていて、途中でご飯を食べて、ちょっとまえに姉ちゃんと妹が、というか、姉ちゃんだけかもしれないが、がつくったキーマカレーが冷凍してあったのを解凍して食べて、多少だらだらして、そのあと雨のなか、牛乳を買いに行くついでにヤンジャンとチャンピオンとマガジンを読みに、ヤンジャンとチャンピオンとマガジンを読みに行くついでに牛乳を買いに行く、かもしれないけれど、コンビニに行って、いま思い出したけどチャンピオンは読み忘れた。その帰りに、以下の文章(山本握微さんのくだりから下をのぞく)のことを考えていて、ふと思ったのは、「つくる」ことに含まれている人間の欲望、たとえば、自分で自分(の作品)を認めたい(=満足のいく作品をつくりたい。自己実現)、とか、自分(の作品)を他人に認められたい、とか、そういうもろもろが、「つくる」ということには含まれていると思っているのだけれど、自分の活動も含めて、人間のそういうところがとことん嫌でたまらないから、うだうだ言っているのだろうな、とふと思う。いや、そういうところがあるのはいいのだけれど、考えるよりまず動いてしまうのが、我ながら嫌なんだろう。と思う反面、もうひとつは、絵画でも音楽でも演劇でも映像でも写真でも彫刻でもなんでもいいけど、そういう「芸術」っていうのは、そのなかで活動する個々の主体=制作者、受容者たちが、それぞれにそれぞれの場所のルールに従って遊ぶ「遊び」なんだな、と。もちろんルールは破られるだろうが、その都度、囲いが大きくなるだけで、囲いがなくなるわけではない。囲いがなくなったら遊べないから。野球でバットとボールをなくしてしまったら、それはもう野球としては成り立たない。芸術もたぶんそうで、囲いはほとんどないようにみえるけれど、最後の囲いだけはどうしても外せなくて、それは「人間の制作物(意図)を人間が経験する」というルール。これはどうしても外せない。そして、いろいろ考えているとこんがらがってきて、芸術っていう「遊び」の遊び方が分からなくなってしまったんだなと、いまの自分の考えを見てみると、思う。なにかにこだわるのは、結局のところ、他者(現実とは違う理想の自分も含む)の欲望を欲望することによる。ラカン(の解説書)の受け売り。誰か、他者から求められ認められること、もしくは、理想の自分から求められ認められること。欲望さえされれば、その内容はなんでもよいのだろう。生きるために生きるのと同じ?生きる目的はなんでもよい。そういえば、去年の前半の趣味は、いろんな展示を見に行って、本気で見て本気で感想を書き(芳名帳に)、お礼状がやってくるのを待つこと。以下、以下のような文章。


昨日書いたもろもろのことについて、なんだっけ。芸術の商品化っていうのは、面白い事態で、商品化した(せざるをえない)作品・芸術行為と、交換を前提としない(個人的な・趣味の)作品・芸術行為、とに二分してしまっている。というようなことについて、私が考えていることは完全に行き詰まっていて、だからどうしたらいいのか、はよく分からない。そもそもそういう「ふたつに分かれている」という認識がどうなのか、というのもあるし。ほいで、私はそのような状況にも関係なく日々生まれ続ける「個別の作品」を無視していて、ここに希望を見出すことも可能だと思われる。これはいままでのもろもろのやりとりのなかで、Re-TATTAKAさんに教えてもらったこと。あと、昨日書いた感じだと、「芸術としての芸術」がまるごと商品化するようなことになっているけど、そういうわけでもなく、商品化は「芸術としての芸術」にも「制作としての芸術」にもやってくるだろう。これは交換がそのまま商品を意味するわけではない、ということによる。たぶん。交換を前提としなくても、制作者以外の人間によって商品化することができる。これらとは別に、いま思いついたことがあって、「芸術としての芸術」ってその名の通り、芸術内の問題にしか関わらない芸術、ってことなんだろうけど、言い換えると、芸術内での普遍を目指すものだと思っていて、これを突き詰めると芸術内でのパワーゲーム=政治ゲームということになるのではないかと。芸術家はそれぞれに、おそらくは、普遍的なもの、を目指しているんだろうけど(特殊から普遍を目指すのも含めて)、芸術世界の外の視点に立ってしまうとそれらは結局は特殊なものでしかなくて、つまり芸術世界内での普遍であったり、するわけで、人間の普遍とか世界の普遍みたいなものには関わりがないし、もっといえば、そういう普遍があるのかどうか、がまず怪しい。ああ、いやいやいや、違うな。そういうふうに考えていくと、いま現在、純粋な「芸術としての芸術」なんてほとんどないかもしれないな。芸術としての普遍とか、普遍としての芸術とか、そういうのを目指す芸術行為なんて、いまどきないかもしれない。流行らないだけかもしれない。とはいえ、普遍の反対にある特殊、つまり個人的な問題意識に基づいて制作をするといったときに、その個人的な問題意識が芸術世界にしかない問題の場合、これはやっぱり「芸術のための芸術」だろうな。芸術世界内の問題を個人的に考え続ける、のは「芸術としての芸術」と呼んでも差し支えなさそう。こういうとこから、芸術世界と生活世界の分裂はでてくるんだろな。そして、実のところ、芸術世界内の問題を個人的に考え続けるモチベーションがどこからどう出てきているのか、さっぱり分からない。自分の制作物を自分であり自分でないものとして承認する欲望??私自身のことでいえば、いままで拘っていた個別の芸術世界内の問題が、哲学・思想とか、生活世界や人間関係の問題にだんだん還元されていってしまっているので、芸術とか表現といったもので、やりたいことが見つからない。ルールを破るためにルール破りをしてもしょうがないし、いまの時代、芸術世界でだけ完結するような特殊な芸術的問題(課題)をやる意味があるかというと怪しい気がする。それだけだと商品になるかならないか、っていう二択をどうしても迫られるし。いやでも特殊な芸術的問題(課題)を、一般的な、生活世界および人間の問題と接続するのが腕の見せ所なのか。でもなんでそんな回りくどいことをしないといけないのか。生活世界および人間の問題に直接アクセスするやり方は芸術以外のところにあるような。いや、まあ、うだうだ言うまえに、ただたんに芸術世界から出なければいいだけのはなしか。あとは、、「理想の自分」とか「理想の作品」とか「理想の〜〜」とかそういう「理想」一般というものが、あるんだかないんだか分からなくなってしまったからかもしれない。ほいで、「芸術としての芸術」をローカルな世界でのみ成り立つものだと捉える場合、その反対に社会的な芸術というものが想定できるけれど、社会問題=生活世界の問題を芸術の問題として解こうとするのは、おそらく矛盾していて、芸術は生活世界の問題を表象として見せることはできるけど、それは考えるきっかけ以上にはならないし、考えるきっかけということでいえば現実に起きている問題を直に感じる以上のものはない。えーと、あとはなんだ。芸術行為を「つくること一般」として捉えたとき、そのなかのデザイン・設計・計画といったような実用的な部分は、公共の生活世界に関わるためこれからも公的なものとして残っていくだろうけれど、いっぽう純粋な芸術という私的な活動については、生活世界からの一時的な避難の場=趣味、もしくは、人文知と同じく効果のはっきりしない「知」のひとつとして、自己教育とか思考の方法のようなものとして残っていくのだろう。そういう意味で哲学と芸術は似ている。「つくること一般」のなかの、「デザイン・設計・計画」はかなりの部分を科学として鍛えられるだろうし、「芸術知」も多少は科学として鍛えられるかもしれない。どちらにしろ非科学的な部分が残るのがミソか。「生活世界からの一時的な避難の場」については、わたしとわたし、もしくは、わたしとあなた、という人間の関係の場として考えるのがいちばんいいだろう。人間関係の科学とかが関係してくるかもしれない。
山本握微さんのサイトをみるとわりと元気が出ます。http://www.kiwamari.org/「今行処」というメーリングリストのアイデアは面白い。これ面白そうよ、とかじゃなく、オレはいまから行くよ、という情報の質。私も、私が直接関わっていない催しものをここに載せることがありますが、その場合、私も行っています。まれに行けない場合もありますが、行けない旨、書いています。一昨日のマンフレッドさんのは40分ほど遅れて行ったらそこから15分ほどで終わったけど。とりあえずマンフレッドさんと話はした。山本握微さんの「今行処」を紹介するテキストより。

ところで、最近の演劇関係者たちの、演劇自体の普及を目論む心がけは立派と思いますが、その戦略が「自分たちみたいな演劇大好きの人を増やす」なんですよねえ。普及ってのは「別に好きでないけどまあ観る」というような層を作ることだと思うのですが。訥々と演劇という芸術のすばらしさをとかれましてもねえ。だから、「情報なんて集めようと思えば集められる」ということに異議はありませんが、集めるのが面倒という人にも、勝手に情報がメールで来るような仕組みが欲しいのです。


好きな人にしか観に来ないような仕組みを作るから、狭いんだ。「嫌なら観に来なければいい」という開き直りが、正論としてクールな態度として、まかり通ってますからね。

演劇がどうなのかは知りませんが、「嫌なら観に来なければいい」という開き直りはどこにでもあるだろうし、むずかしいところですね。開き直りきることもまたむずかしいわけですが。とりあえずは「好きな人」が何人かいてくれないと制作−受容のサイクルは成り立たないわけですが、ここで言われるように、サイクルが「好きな人たち」だけで閉じちゃうのもどうか、って問題はやはりあります。ここですこしややこしいのは、「集客」「客層の拡がり」と「表現内容」「広報」それぞれの関係です。これらがどう関係しているのか、興味がありますが、まだよく分かりません。表現内容が主流から外れるにつれ、お客は減ります。なぜなら、非主流であるほど、理解する・楽しむための前提を共有するのが困難になるからです。えーと、はなしがずれますが、非主流の表現においてややこしいことは、お客が来ないのが、理解する・楽しむための前提が共有されにくいからなのか、それとも、表現そのものの品質が低いから、なのか、判別しにくいことです(これが悪循環を生み出す原因ともいえます。品質の低さをお客の興味のなさと取り違えることができる)。正直どちらともいえないし、表現の品質というより、広報の品質のような気もします。非主流の表現が、理解する・楽しむための前提が共有されにくい以上、とにかく興味を持ってもらう工夫が必要なのですが、とてもこれがむずかしい。そもそも興味がないから、理解する・楽しむための前提が共有されにくいわけで、どういうふうに潜在的なお客を見つけていくか。そして来てくれたお客をどのように導いていくか。これは表現内容以上にむずかしいところですし、気をつかうべきところです。「やりたいこと」が主流であれば、なんの問題もありません。いままでの前例がいくつもありますし、制作者と受容者をつなぐ仕組みも出来上がっていて、それらに乗っていけば、多少の品質や独自性さえあれば、いくらかの「好きな人」はついてくるでしょう。問題なのは、「やりたいこと」が極度に非主流である場合です。正確には、非主流であるがゆえに、制作者と受容者をつなぐ仕組みが存在しない、もしくは、主流の仕組みに入り込めない場合です。正直これ以上はもうさっぱり分からないので、もう書き進められないのですが、とりあえず確かなのは、興味を持ってもらう努力と、興味を持ってくれた人にさらなる理解を促す努力が、なにをおいても必要だ、ということでしょうか。めちゃくちゃ当たり前のことですが。ほいで、私も『とりあえず信頼できる友人たち(とても少ない!)にまず楽しんでもらえるように思ってやっているし、正直なところ、その少ない人数で構成された範囲以外にまで関わる気力がない。』って書いたし、そういう気持ちではあるけれど、誰が見ても「意味」は分かるように、「意図」はともかく、行為自体の意味は分かるように、行為をデザインしているつもり。でも、ほんと面白いことがどういうことなのかさっぱり分からないので、なにが面白いのかさっぱり分からなくて、どんなものでも面白く見ようと思えば見れるとも思っているので、とにかく分かりません。そうなると、日々の考えごとの最中に思いついたことのなかで、比較的なんかありそうなアクションをパフォーマンスとして、やってみるしかなくて、しかも何回かやって洗練させる、とかいうもんでもないので、やってみるまで、やってみたとしても、面白いかどうかはよく分からないし、最初から二度とやるつもりはなかったりもする。やってみてこれはダメだなと思っても、意外な人から褒められたりするし、そのへんはほんとに分からない。そして当然のことながら、そういうふうにしてなされた行為は、主義・主張や思想や美学や世界観を表現しているともいいがたくて、フリがきたからとにかくボケた、というだけかもしれない。だから、見た人がうまくツッコんでくれないと、成り立たない。という事情もあって、実のところ、演奏というかパフォーマンスというか、そういうもののとき、ソロ=ひとり、じゃない方がやりやすい。特に楽器なりなんなりをしっかり演奏できる人、楽器じゃなくてもいいけどとにかく自分の表現がしっかりあってそれをしっかり表現する人(つまり私とは正反対の人)だとなおやりやすい。隠れ蓑にできる、というか、寄生できるので。しっかりした表現がまずあり、その一方で私がなんかやる、というふうにすると、観客にも逃げ場所ができて見やすい。土台がちゃんとあると、私も自由にできる。もちろん共演の人のことなんか考えていなくて、いや考えているけど、どういうふうなことをしたら激しくぶつかるか、とか、だけど、合わせようとか引き立てようとかは一切考えていなくて、むしろどっちかが潰れた方がよい、くらいの勢いではあるけれど、そういう意味では毎回申し訳ないと思う。でもなあ、隠れ蓑ありか、そうでないか、でやることがまったく違ってくるし、そのどちらがいいのかはさっぱり分からない。あとはまあ、やっぱりよくもわるくも「音楽」に守られているようなところは、まだある。あと、直嶋平間竹内小田コンピをやっているうちに気付いたのは、録音物の方が、録音物でしかできないことの方が、いろいろ思いつきやすいかもしれない、ということで、パフォーマンス=話しことば、録音物=書きことば、ということでもあるかもしれない。あと、めちゃくちゃ大雑把に言い切ってしまえば、主流の表現をする人たちは主に他人に自分を認めてもらおうとしていて、非主流の表現をする人たちは主に自分(理想の自分・理念)に自分(現実化した自分=作品)を認めてもらおうとしている、といえないか?いえないか。なんでふたつに分けたいんだろう。