青汁の粉末をオレンジジュースで割る。オレンジとグリーンが混じって沼っぽい。田尻裕彦,石堂威,小巻哲,寺田真理子,馬場正尊 監修「この先の建築」は、第四回「篠原一男×長谷川逸子×隈研吾×西沢立衛×藤本壮介」を読み終わる。つくづくどの章もメンツが濃い。あとは第五回「槇文彦×藤森照信×内藤 廣×曽我部昌史×松原弘典」を残すのみ。アマルティア・セン「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」は、「人権とアジア的価値」を久しぶりにお湯を張った風呂で読み終わる。はるか昔の、中国・インドのリーダーたちのはなしがおもしろい。おもに、寛容について。寛容か。むずかしい。おそらく、無限定な寛容っていうのは、ありえない気がする。あるとすれば、限りなく「すべて」に近い範囲に限定したうえでの寛容か。事態としての「ない」ではなく、それを「ない」という言葉で存在させてしまうことに似ているけれども。寛容と無関心は似て非なるものだけれど、意外に実際上の効果としてはどこか近い。関心がなければ、たいていのことは許せる。しかし、「許せる」と「寛容」は同じなのか??これは、「寛容」っていうと、妙に上から目線なイメージがあることに関係があるかも。「大目に見る」みたいな。たぶん、ことばの意味としてはそうではないのだろうけれど、現代の私たちのことばの使い方におけるイメージが、そういうふうになっている。外山滋比古「思考の整理学」は、ちょちょっと寝る前に読むくらいでちょうどよい。面白いのだけれど、書かれている内容よりも著者が前に出てくる感じがするので、すこし距離を置いた方がよいかもしれない。ウィキペディアによると、寛容は

自分と異なる意見を持つ人々に対して一定の理解を示し、たとえ相手が誤っているとしても、暴力や威嚇によってではなく議論によって説得を行おうとする態度である。

とのことで、個人的な感覚でいえば、「議論」というもの自体が避けられる傾向がある上に、議論があるかと思えば互いの主張の「勝ち負け」を決めるものであるかのように扱われ、自説が正しいと信じきった上でなされる議論もどきばかりになり、そうなると「寛容」自体がたちゆかなくなるのも、当然といえば当然かと思う。オレはオレ、アナタはアナタ、という結果に落ち着くことが決まっている議論は議論じゃないし、そもそも自分の意見が変化することを求めない主体による議論は議論にならないのが、ややこしいところ。あと、人間が「役割」としてではなくむき出しの「個人」として値踏みされるようになって、だんだんそれが強まってくると、ひたすら認められようとしたり、自分への否定的な評価に妙にヒステリックに反応したり、あらゆるコミュニケーションの側面で自分の落ち度ばかりを気にしたり、する傾向が出てくるけれど、それとは別に、値踏み自体を避ける傾向も出てきて、どちらの傾向も、なんというか、とても生きづらいだろうなと思う。どうにかできんかなと思うけれど、私にはどうにもできない。いま、「人間が「役割」としてではなくむき出しの「個人」として値踏みされるようになって」と書いたけれど、それは、値踏みする側、つまりすべての人間のことだけれど、なぜなら値踏みする人間もまた値踏みされるからだけれど、とにかく、値踏みしたりされたりを繰り返す私たちみんなのなかで「役割」とそれを演じる「個人」とのあいだの行き来がうまく行かなくなっているということなのかもしれない。「役割」のレベルではなしていることなのに、「個人」のレベルのはなしのように受け取ってしまったり、ということは、よくあることで、こういう階層の錯誤がややこしさの根源なのかもしれない。あとは、なんでもかんでもどんなにささいなことにでも、プライドをかけるのがよくないのかしら。相手への配慮のまえに、自分のプライドを重視する社会というのは、どう考えても、貧しい。被害妄想社会・・。これも寛容が関係あるのだろうか。もし仮に、まあ多少間違ってもみんなでカバーしあえば大丈夫大丈夫、という余裕をみんなで共有していれば、被害妄想的に自分のプライドに固執する必要はないだろう。なんでも自己責任だから、責任を恐れるあまり、あらゆる行動がリスク回避型や言い訳型になるのか??「会社」とかほんと被害妄想社会よね。たぶん、たいていの会社がそうだと思う。まえの会社も入った当初はそうだったけど、だんだん変わっていった。社内の「全社」は無理だとしても「部」や「課」や「チーム」の人間関係のなかで基本的な信頼が共有されていないと、怒られないように、自分の責任にならないように、バカにされないように、みたいな、ネガティブな行動様式の支配する社会になる。むー。古書・雑貨バートルビーで読んだ「ムーたち」はあまりに面白くて、買おうかなと思った。私の本棚にはマンガがひとつもないのだけれど、マンガは妹に任せてあるからだけれど、面白いマンガもどんどん読んでいきたい。小学校の頃にちょびっと読んで、挫折した「火の鳥」も読みたい。