「らしさ」というのが、よくわからない。いや、もちろん「らしさ」はある。あるのだけれど、それは他人の視線抜きには成立しない。ということは、もちろん「らしさ」の押しつけも起こりうるということになる。その人に対するなんらかのイメージができていて、そのイメージとずれる場合、「らしくないね」ということになるわけだから、その人に対して自分の思うその人イメージを押しつけているとも言える。あと、自分で「自分らしさ」とはなんだろう、と考えるのは、無意味なんじゃねえかとも思う。いまちゃんと論理を組み立ててないからあれだけれど、もし仮に、「自分らしさ」というものが、事後的に、しかも他人の視線経由でしか表れないものだとするならば、なんらかの「自分らしさ」があらかじめあって、それを発見すればよい、あるいはそれに従って選択ないし行動すればよい、と考えるのは、無意味だということになる。だって、その都度とりあえず選択したことや行動したことを他人が見て、その連なりや積み重なりに対して他人が勝手になにかしらの一貫性を見いだしてそれを「あなたらしさ」だと呼ぶのであれば、「らしさ」を先取りするのは不可能だろう。といいつつも、履歴・歴史をどのように見るかによって、どのような「らしさ」が出てくるかが決まるので、逆に言えばどのような「らしさ」を出したいかによって、どのような履歴・歴史を積み重ねればいいかがわかるともいえるので、まあそういうのはイメージ戦略というかブランディングみたいなことになるのかしら。といっても、「どう見られたいか」が透けてみえる自己申告の「らしさ」はやっぱりなんか信頼できないというか嘘っぽく感じられるわけで(しかしまた自然な「らしさ」というのもまたあり得ないわけだけれど。「どう見られたいか」は絶対はいってくる)、なんちゅうか、すくなくとも個人レベルでは、「らしさ」というイメージに自分の選択や行動を左右されるのは鬱陶しいとしか思えないので、あまり「らしさ」という概念にはいい印象がない。鬱陶しいというか、きれいに文脈の整理をして、見られたいように見せるみたいな作業はかなり面倒臭いということだけれど、うーん、あとは、それ自体独立した「らしさ」のようなものが必要だと思えないというのもある。それ自体独立した、っていうのは、なにかこう自分と誰かの関係抜きに、または静的な固定したものとして、という意味で、それは個性という概念にも同じようなことを感じる。「個性」とか「らしさ」にはどのような機能があるのか。自分のイメージ、自分が自分にどのような印象を持っているか、について考えることには使えるけれども、それ以外になんか使い道があるのか。そして、自分イメージを持たなくても、ぜんぜんやってける気がするけれど、なんというか「自分の売り」・「自分の特徴」・「自分の性質」・「自分の属性」みたいなもんを軸にした選択や行動や関わり方をしなければいいだけで、いやまったくしないのも無理なのかもしれないけれど、それでもなお「個性」とか「らしさ」という概念は有用なのかな。