なんかこれも前に書いたような気がするが、以前youtubeにあった細野晴臣さんのラジオ音源に、細野晴臣perfumeを聴く、みたいなのがあって聴いてみると、perfumelove the world」を少し聴いての第一声が「おお、バグルス!懐かしいねえー」みたいなことばで、バグルス?ぜんぜん知らんけどなんか有名な曲があるような気がするな?と思って検索してみたら、「ラジオスターの悲劇」という曲がでてきて、この曲、曲名は知らずともどこかで聴いたことがあった。というか、バグルスを聴いて思い出すのはダフトパンク。「Digital Love」とか。もちろんバグルスが先っぽいけど、後の時代の人間としてはさかのぼっていくしかない。ダフトパンクにも「80年代」と「都市」の感じがするけれど、松本零士さんとの「Interstella 5555」なんかは、とことんダサいとは思いつつ、けっこう反応してしまう。そもそもダフトパンクってオシャレでもなんでもなく、ダサかっこいい、みたいな感じを持っている。AKUFENにも似たような感じを持っている。LUOMOなんかもちょっと似た感じを持っているが、ちょっと違うか。LUOMOはあまりにも真面目に「ハウス」すぎて妙にオシャレなので、逆にダサいというか、ちょっと微妙なところ。美容室とかセレクトショップでかかってそうな。いまだに「ハウス」は強いし、いまはもっとロックっぽいエレクトロなのかもしれないが、私は「ロック」にもうあまり萌えないので、なんともいえない。最初のはなしに戻ると、ちょっといま細かい言い回しを確認できないので、なんともいえないけれど、細野さんはperfumeを聴いて、(曲を作っている中田ヤスタカさんが)バグルス好きなのが伝わってくる、というようなことを言っていて、つまり、ここでは「バグルス」はバンド名ではなく、バグルスの楽曲群がかもしだす漠然とした雰囲気のぜんたいをもわっと表す記号として扱われている。中田さんがどういうつもりなのかは分からないけれど、perfumeの曲が細野さんに「バグルス」感を伝えることができるのは、そういう「雰囲気」が、それを具体的に構成する要素として分解され、データベースに登録されているから。で、そのデータベースから持ってきたいくつかの要素を再構成して「love the world」がつくられていると。ほいで、そういう作り方がどうやこうやというのはもはや当たり前なのでどうでもよくて、ああ、そうなのかと思ったのは、お互いにプロの音楽家であり、1980年生まれ(中田)と1947年生まれ(細野)と世代も違うふたりのあいだで、そのような「感じ方」が共有されているように見えること。と同時に、細野さん自身がそういう聴き方をしているのだなと思ったこと。あとさらに重要なのが、前の前の日記かな、に、『「メッセージ」やら「コンセプト」やらですらデータベース化され、選択と再構成の問題になっているので、どんな「コンセプト」を選び、どんな「メッセージ」を発するかさえ、個人の趣味の問題になる。つまり、コンセプトやメッセージはそのまま受け取られるのではなく、そういうコンセプト、そういうメッセージを選ぶ趣味の人なのだな、という受け取られ方をするし、そもそも作り手の側がそれを求めているフシがある。』と書いたけれど、「love the world」を聴いて細野さんがやっていることもこれと同じで、曲そのものについてではなく、曲を構成する要素と組み合わせの選択から推測できる、「そういう曲」をつくった感覚についての話をしている。これは音楽に限らず、身に覚えがある。「作品」をみるときに、作者の歴史とか考え方をみる、という態度は、この感覚をベースにしているし、そうなりたくないと思っていても、自然となっているのでびびる。いまyoutube東京スカパラダイスオーケストラ奥田民生の「美しく燃える森」を聴いているけれど、これが出たとき、奥田民生さんがあまりに真面目に歌っているのでびっくりした記憶がある。「イージュー★ライダー」とか「愛のために」とかの奥田さんはダラダラした歌い方というかダラダラしたイメージをかもし出していて、ユニコーンの「Maybe Blue」を聴いてほんとに同じ人かと思った。なんとなくビッグバンドつながりということで、DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN「MIRROR BALLS」のライブ映像を見る。サックスソロがすこししんどそうだ。スペシャかなんかでライブ映像をみて、おっよいな、と思いCDを買ったら、CDの方はなんだかカチカチしていて、編集の仕方なのかわからんけれど、よくなかった。『曲そのものについてではなく、曲を構成する要素と組み合わせの選択から推測できる、「そういう曲」をつくった感覚についての話をしている。』という受容の仕方はものすごく一般的で、ひとことでいえば「手段が目的」ということで、その受容の仕方からはいくらマイナーな音楽でも逃れられない。たとえば、自分の演奏を「即興演奏」としてやるとする(即興演奏ではなく、ミニマルテクノでも現代音楽でも、なんでもいいけど)。たったこれだけでも、その内容とは別にものすごくたくさんの過去の「即興演奏家」が参照項としてくっついてきてしまう。ジャンルとしての「即興演奏」が好きなこと「だけ」を表現したいのであれば、それでもかまわないだろうし、さらにもっと細かく自分の趣味を伝えることもできる。たとえば、ものすごく長い間をとってみる。これだけで杉本拓さんの試みを、形式だけに還元し、「萌え要素」として再構成することができる。音量を小さくしてみよう。これだけで、微弱音即興のフィールドの仲間入りができる。形式だけだけど。電子機器を入れてみてもよい。これだけで、演奏=コントロールの問題系への仲間入り。こういう事態は、逆に言えば、「要素」と要素の「構成」の仕方・見せ方で、「受け取られ方」が完全に決まってしまう、ということで、ここでのバランスのとり方によっては、シミュラークルの渦に翻弄されるだけになってしまう。自分の選んだ「手段」のなにに自分が魅せられているのか、突き詰めて考えないと、手段を手段として突き放して扱えない気がするのだけれど、どうなのだろう。あと、自分の参加しようとする問題系が、どのくらい現在的かの判断とかも必要な気がするけれど。。うーん、でもこれも視点の設定でずいぶん変わるから微妙なところ。視野=見える範囲の設定によって、根本から変わってくる・・。現在的かどうかっていうのも、それをどの範囲において考えるかでまるで答えが変わってくるし。音楽における、演奏=コントロール(ないし表現主体)の問題系は、いつも行くクリーニング屋のおばちゃんとはぜったい共有できない。でも、演奏=コントロール(ないし表現主体)の問題系で問題にされている事柄を抽象して取り出して、別のかたちに置き換えれば、いつも行くクリーニング屋のおばちゃんとも共有できる可能性がある。言い換えれば、問題の表し方にさえこだわらなければ、個人的な問題意識であっても、誰もと議論可能な事柄として提示できる可能性がある。とはいえ、問題の「表し方」にくっついて離れない特有の「問題系」もある。それだけを扱うという手もある。でもどうしてもこの場合、専門的にならざるをえない。私としてはいつも一石二鳥というか、誰もと議論可能な事柄(の表現)と、その表現手法自体の問題系とを、並列に提示できないかどうか考える。いやいや、表現手法自体の問題系はきれいさっぱり避けている場合もあるな。自分自身で、表現手法の問題系を最終的に避けてしまった例として「時はゆく」があると思うのだけれど、これはいわゆる「作曲」というか「行為の指示」の問題系にも連結できるのだけれど、それはあまり問題ではなくて、というかあまりそっちにいっても変に専門的でみんなには伝わらないし、あまりに観念的でも面白くもないというだけなのだけれど、アンデパンダンでのSJQライブのときに、備後君と「時はゆく」について話したのだれど、そこで尋ねられたのが、「時はゆく」のルール自体と、ルールを表現する現象と、どちらを見せたいのか、ということで、私は、どちらもと答えた。両者が一致する必要はないけれど、並列に並べたいとは思う。「見えるもの」が見せる「見えないもの」=ルール、と、「見えないもの」を見せる「見えるもの」=現象、には階層というものはなくて、等価だ。実際に、ルール自体は現象からの発想だったりするし、「現象はルールの媒体でしかない」もしくは「現象は現象でしかない」というのは、ちょっともったいないと思う。あと、なんにしろJPOPのひとはもっとちゃんと歌詞を考えてほしいです。ケータイ小説か。ケータイ小説を知らないので、イメージですが。ベタな要素の連発で、反射的な萌えを誘発するだけの、というイメージです。ギャグなら、それでもいいですが、本気なので、どう接していいか分からない。あと、音楽を聴いているはずなのに、見知らぬ他人の愚痴や自慢話や自分の信念を聞かされているだけなのは、いちばん最悪で、これだけはどうしても耐えがたい。そんなのは、メッセージではないし、メッセージとはなにか、から考えた方がよいのではないですか、と老婆心ながら、思います。いや、素人の意見ですが。露出狂とストリッパーは違うしなあ。