こんばんは、beyer梅田さん。地図、ずっと前からしっかり載ってたじゃないですかー。トップページのビジュアルとして(笑)。このアイデア、個人的にはかなりの衝撃を受けました。ちょっとまえのブログでリニューアルを考えているとのことでしたが、これを超えるものはなかなか大変そうですが、、楽しみにしています。番地を頼りに場所を探すのは私も好きです。あと、だいたいの方向だけで場所を探すとか。もしくはうろ覚えの地図で場所を探すとか。まあ辿り着かなければ着かないで死ぬわけでもないですし。→http://www.beyerbooks-pl.us/mt/mt-tb.cgi/142 直接コメントすると、なんだかひょっとするとカドが立つかもしれないと思い、自分の日記に書き記す。きのう書いたようなことをひたすら考える理由は簡単で、「表現」の供給過多、もしくは、「表現」に触れる機会の増加、に対して、どういうふうに自分が関わりあっていけばよいか悩んでいるからで、つまるところ、みんながみんな、自分自身ではなく、自分を表したモノやコトにおいて他人と関わろうとしているという事態に、どう対処してよいかよく分からないからで、えーと、ややこしくなってきた、簡単にいえば、「表現」らしきものには一切触れない!と決めない限り、というか決めたとしても、そのようなモノやコトに触れずに生きるのは不可能である、ように私には思われるので、そしたらどうしようかなということで、無数の「表現」に対するときの基準、基本的な態度を持っておきたい、ということ。とりあえず、ひとつ簡単なのは、自分の専門外は問題外、という態度。自分の専門内だけで思考と鑑賞を完結させる。これは別に悪いことではなくて、むしろ当たり前というか、人間ひとりの容量は限られているので、ある程度はこういうふうに限定していかないと対象に深く触れていくのは、どうしてもむずかしい。ふたつめに簡単なのは、業界・市場内である一定の評価を得たものしか相手にしない、という態度。広く浅く、有名なものだけ、という態度。これもさっきのと同じく、別に悪いことではなくて、むしろ当たり前というか、人間ひとりの容量は限られているので、ある程度はこういうふうに限定していかないといろんな対象に触れていくのは、どうしてもむずかしい。ほいで、みっつめは、表現の専門性や業界・市場内での評価をいったんカッコに入れて、表現主体=作者の人間性と関わりあっていく、という態度。表現の専門性や業界での評価はさておき、こういう創造を行える人間(=作者)の存在自体がすばらしいよね、というような。これだと、広く浅く、有名から無名までカバーができる。とはいえ、この態度の根本にあるのは、表現を受け取ることによってもたらされる経験自体をカッコに入れる、ってことなので、「表現」行為の本質とはなんの関係も持たなくなる可能性がある。作者同士の承認と被承認の循環とか、仲間探しとか、趣味の合う仲間との語らいとか、「表現」行為でしかできないわけでもないことばっかりになりかねない。さらによっつめ、表現自体の質や専門性や作者の存在や自分の専門性などをいったんまるごとカッコに入れて、表現そのものと関わりあっていく、という態度。対象となる「表現」の見方そのものをその場でつくる、というような。これでも、広く浅く、有名から無名までカバーができる。が、対象となる「表現」に、もはやそれ以外の解釈や判断ができないほどに価値判断の基準が埋め込まれていたり、作者のエゴが表現の見方をゼロからつくることを許さなかったり、すると、この態度は成り立たない。というわけで、自分ひとりで考えるかぎり、どうやっても、無数の「表現」に対するときの、中立的な態度、というのは、ありそうもない。なんとか可能性がありそうなのは、よっつめだけれど、こちらがいかに中立的にいったとしても、相手の方でガッチリ見方や価値判断までも決まりきったことをやられてしまうと、もうお手上げ。ひとつの意味しか持ち得ないようにガチガチにつくられたモノやコトに、どうやったら自分なりの価値を与えられるのか。もちろん、どこかに綻びはあるのだろうけれど、それを探すモチベーションが自分に湧いてこないとどうしようもない。なら、その綻びを探すモチベーションというのは、どこから出てくるのか。やはり、なにかしら捉えどころがなかったり、自分の価値基準を超えているようなモノやコトに対したときに、モチベーション、興奮は湧いてくる。とはいえ、捉えどころのなさとか自分の価値基準を超えているとかの判断をするのも、また、自分であるわけで、ここには固有の思い込みというか独断がどうしても入り込む。これはたしかにある。しかし、とはいっても、自分の思い込みを相対化しさえすれば、どんな「表現」からでもなにかしらの価値を必ず引き出せる、というわけでもなかろう。観客の側にある思い込みや独断の問題と同時に、作者とその「表現」のなかにある思い込みや独断について、これをどう扱うのか、という問題がでてくる。たいていの人は、人と顔を突き合わせて対話するとき、お互いに個人的な思い込みや独断だけで話をしないように注意する。だからこそ、対話が成り立つ。しかし、こと「表現」となると、人は、個人的な思い込みや独断を爆発させる傾向が強い。あたかもそれが「表現」であるかのようだ。これはどういうことなのだろうか。一方的に個人的な思い込みや独断が「表現」された表現物に、どのように接していったらいいのか。聞き上手、褒め上手に徹するしかないのか。なんともいえない。堂々巡りな気がするので、とりあえずは、一方的に押しつけられているような感じがするモノやコトを避けるようにすることと、なぜそう感じるかを考えることのふたつをやっていくしかないっぽい。向こうはそういうつもりがなくとも、こちらがそう感じてしまうこと、というのは多々あるし、それは別にどちらが悪いというわけでもなく、ただ出会いのタイミングであったり相性であったり、それだけなのだろう。「押しつけまい」としていても、そのこと自体が「押しつけがましい」感じがすることもあるし、これはまあ表現のスタイルや態度がどうというよりも、単純に、人間の性向の違い、というだけかもしれない。私自身は、なにかの表現をみるときには、作品と作者の性向は切り離したいと思っているので、そうしようとは思うのですが、やはりどうしても、こ、これは・・という作品や表現行為があったりもして、もちろんそういうのはそういうのでアリだとは思いますが、作者と作品を、こっちで切り離そうとしてもあっちでくっつけちゃうので堂々巡りなわけです。作者と作品・表現行為が、こっちで切れないほど癒着してしまっている。なんというか、でも、これはやっぱり幼児的というか、他人に見せるにはちょっと甘っちょろい気もするわけです。だから、どういうふうに表現しようが勝手なのですが、作者と作品の癒着、自己陶酔だけやめてくれれば、私はどんな他人の作品にでも自分なりの価値を見つけられる気がしますが、そう言いきってしまうのもどうかと思います。私は私で思い込みがありますし、これは言い訳ではなく、たんなる事実で、思い込みがあるから仕方ないというようなことを言ってもしょうがないし、どんな作品にでも価値を見つけられるというのは、それはそれで、傲慢ともいえる。あと、なんらかの「表現」に出会ってしまったあとのことを考える「無数の「表現」にどう関わっていくか」とは別に、「表現」との出会いそのもののことを考える「「表現」との出会いをどのように選択するか」、どの程度の範囲まで興味を伸ばすか、というのも重要。物理的にどこまで足を運ぶか、というのもあるし、情報を集めるにしても、どのくらい、どの範囲において、集めるか、というのもある。インターネットを使えば、かなりの情報を集められるが、良い面、悪い面、あるだろう。興味の範囲があまりにローカルになると、井の中の蛙になるし、だからといって、あまりにグローバルになると、興味の収拾がつかないし地に足もつかない。ローカルすぎると、自分の趣味・嗜好の縮小再生産になるし、グローバルすぎるとなにをどう選んだものか分からなくなる。このへんは、山本握微さんの「今行処」が今後もっとにぎわってくれば、参考になると思う。本屋で見かけた、どこだったか、ジュンク堂だったか、稲葉振一郎社会学入門」が気になる。あと、天満橋ジュンク堂で見かけた「芸術の予言」も面白そうであった。http://www.filmart.co.jp/new/60_1.php 装丁は佐々木暁さん。あと、実家に手伝いで帰っていたときに、経済学部だった友達から、ジョセフ・E. スティグリッツ「入門経済学」の第1版かな、と、ローレンス・W. マーチン「スティグリッツ 入門経済学 スタディガイド」を無期貸し出ししてもらった。