父ちゃんから荷物が送られてきた。ゴーヤとかしいたけとかカボチャとかナスとかショウガとか。そのなかに混じって、商品リストと商品しおりが入っていて、これは明日、東京に持っていくやつ。あと、日経ビジネスアソシエという雑誌が入っていて、ふせんのついているところを開いてみると、勝間和代さんの連載ページで、Twitterの紹介。気軽なつながりと知恵の共有、とか。父ちゃんはこれを見せたかったようだ。今の時点ではあんまり即時性、リアルタイムへの欲求がないので、Twitterにはあまり興味がない。けれど、ブログにおいては、結局のところ表現者間の格差が広がっていくばかりのような気がするので、その点、Twitterはいいかもしれない。なんだかんだ言って、他人のブログっていうのは、知人の近況を知るという目的以上のものは求められていないのかもしれなくて、そもそも自分自身、他人のブログより書籍を読んでいる時間の方が圧倒的に多いし。自分のメモ書きをオープンにしといたら、誰かがなにかを教えてくれるかも、くらいの目的しかない。公になにかを発言しているという感じはあまりない。どっちかというと、お寺や教会の掲示板に住職や神父からのことばが書いてあったり、お店の看板に「今日のひとこと」として店主のつぶやきが書いてあったり、するのと似ているのかもしれない。範囲の限定された公的なもの。でもこれはなんでもそうかも。ある研究者がなにかについての本を書いて出したとしても、その本による影響は、その本の読まれる、その本に関心のあつまる範囲にとどまる。いやいや、お寺や教会の掲示板、お店の看板の「今日のひとこと」はどちらかといえば、ブログというよりTwitterだ。フォローして必ず見る、というわけではなく、たまたま通りかかって見てしまう、ということの方が多いけれど。じゃあ、ブログってなんなんだろう。たぶん、ある程度のまとまりを持ったなんらかの主張をちゃんとした流れでもって書かないと、ブログじゃなくてTwitterでいいじゃん、というふうになるんだろうな。いままではブログが受け止めていた人間の欲求をTwitterだとよりスムーズに受け止められる、ということかもしれない。自分の都合のよいときにだけ、人前に出てひとことなにかを言いたい、というような。ネット上でなにか書く、というのは、そういうことだと思う。で、それを誰かが、文字通り顔も持たなければ性格も持たない「どこかの誰か」が見てくれてさえいればいいという。明日、明後日と、家業の仕事で東京に行くので、荷造りしないと。新幹線で行くのはなんだかんだで初めてかもしれない。いままでは、バスか飛行機かだったような。新幹線だと品川で降りられるから便利だというのは本当だ。Kさまにお願いして、TATTAKAさんに連絡をとってもらっているけれど、はたして会えるだろうか。山田真茂留「〈普通〉という希望」は、「第5章 集合的アイデンティティの現在」をさっきトイレで読み終えたので、あとは「第6章 信頼社会の回復に向けて」。いままで漠然と感じていたことが整理される、というか、社会学の分野ではちゃんと議論されているんだなと思った。湯浅誠「どんとこい、貧困!」は「第一章 どんとこい、自己責任論!」を読み終えて、「第二章 ぼくらの「社会」とあきらめない」に入る。久しぶりに再開した、田尻裕彦,石堂威,小巻哲,寺田真理子,馬場正尊 監修「この先の建築」は昨日寝るまえに、第三回「石山修武×岸和郎×青木淳×阿部仁史×太田浩史」をさきほど読み終わる。青木さんが「大きな」建築家像にいらだって、いい感じに突っ張っていて、面白い。引用。

岸さんと僕は、たぶん世代としてかなり近いと思います。僕も「建築家」が嫌いですね。自分も建築をやっていますけど(笑)。単にこんなことしたいと思うことをやっているのに、それをもっと大きなところから正当化したり責任を感じるのは、自分にそれだけの権限があるという意識の現れでしょうから、つまり傲慢ですね。
 もちろん、大きい問題は大きい問題としてあるから、それについて発言したり行動したりするのは当然だと思います。でも、自分にとって切実な問題を超えて正論を言うのはずるいですね。どうして身の丈でやれないのかなあ。とにかく、そういうことを、少なくとも僕より若い人にはもうやってほしくないなあと思います。だって、少なくとも人口の問題は建築で解決できるはずがないし、エネルギーの問題にしても、建築が関わることは確かだけれど、建築で解決できる問題ではないではないですか。

プロジェクト・杉田玄白のサイト(http://www.genpaku.org/)にある、ウィリアム・モリス「芸術の目的」をざざっと読んでみる。モリスは「作り手」側に偏ったはなしをするなあと思うが、おそらく、モリスの考える「作り手」と現代の「作り手」とは、まったく別のものだ。大なり小なり、なんらかのかたちで、すべての人間が(自己)表現というものに関わってしまっている、というのは、そうかもしれないと思うけれど、かといって、それが「個性の発揮」・「自己実現」というようなかたちで、社会的な規範として押し付けられるようなものになってしまえば、ただ息苦しいだけだし、表現力(コミュニケーション力??)格差みたいなのが出てくるだけだ。で、実際にそうなろうとしているフシもある。まずは「面白がる」こと、「面白がれる」環境をつくること、からスタートしないといけない気がする。みんなが肩肘張って、成功のため、自己実現のため、なにかのため、「表現」をする必要は一切ない。