たしかにしばらくこの日記を書いていないと、新たに書くとき、新たに書くというか、休みをはさんでまた書きはじめるとき、小学校を休んだ次の日の登校前の気分のようなものがある。学校でなくとも、会社とか部活でもよい。昨日のはなしは、アルゴリズム一般、ルール一般、手続き一般、秩序一般、生成プロセス一般、のはなしであるけれど、作者の自己解放のためだけにアルゴリズムとかルールとか手続きがつかわれるのは、ちょっとどうか、というだけで、伊東さんの建築とはあまり関係がない。建築という分野は建築家の自己解放だけでは成立しないし。直島の地中美術館にあるウォルター・デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノー・タイム」(http://www.chichu.jp/j/works/img/time.jpg)をみて思ったのは、なんか分からんけどとにかく秩序がある!ということで、細かい表面とかはさておきとにかく秩序があるらしい、というのは分かるし、それがなんだか面白い。どういう秩序かは分からんけど、とにかく秩序が「ある」という状況。そういう秩序、アルゴリズムの面白さはあると思う。結果の原因として、秩序=ルール=アルゴリズム=プロセス、がつかわれたときに、とたんに面白くなくなるのだろう、たぶん。いや俺じゃなくてアルゴリズムがやったことなんで!というような。そんなん知らんし。そのアルゴリズムを連れてきたのはあなたでしょうよ。アルゴリズムしかいないのであればわかるけど、アルゴリズムを連れてきたあなたもいるわけで、じゃああなたはなんなんだと。アルゴリズムを作者とするならあなたはメタ作者とでもいうのか。といっても、意図を超えるかどうかはさておき、プロセスを明快にする、という意味で、アルゴリズムというかルールというものは有効だと思います。作者に「自分でも思っていなかったものができた!」と言われても、見るほうはその「思っていたもの」を知らず、へえそうですか、としか言えないので、そこは要注意。おもしろポイントはそこではない。自分でなにかを見るときにもあまりその裏のルールとかは気にしない。でもそのルールこそが重要だと思われる場合には注意して見るけれど。関西電気保安協会のひとがくる。壊れていたチャイムから漏電。「オルタナティブ・モダン――建築の自由をひらくもの」の第3巻「藤本壮介 新しい単純さ/新しい多様性をもとめて」を読む。おもしろい。部分から全体をつくる、というか、個別の体験から全体をつくる、というべきなのか。オルタナティブ・モダン――建築の自由をひらくもの」、第3巻「藤本壮介 新しい単純さ/新しい多様性をもとめて」より。

 部分から建築をつくっていくという話をしてきましたが、ここで少し、空間とは違う例を見ていただきたいと思います。
 まずお見せするのは、バッハの曲の楽譜です。楽譜は、縦線が入って小節に分かれています。要するに、時間は、ある一定のリズムで均質に流れていて、そこにオブジェクトのように音がレイアウトされている。これは、まさに近代建築だなと思うのです。ミースですね。

 それなら、そうではない音楽はあるのかというと、単純な発想ですが、それは日本の音楽ではないかと思います。例えば、琵琶の場合で考えると、琵琶というのはバーンと鳴って、そこから時間が始まります。時間が流れているところに音が置かれていくのではなく、音が鳴った瞬間に時間が始まり、さらに次の音が鳴った瞬間に、また時間がつながって・・・・と、時間が継ぎ足されていくような感じがある。

 それで楽譜をちょっと書き直してみました(引用者註 バッハの楽譜から五線を取り払って音符だけが並んでいる図)。こうすると見え方が変わってきます。楽譜を縦に読んでもいいし、横に読んでもいい。これをつくってみて、琵琶とはまったく違うけれども、音がまずあって、それで時間が流れ始めるとは、「なるほどこういうことなのか」と思いました。均質な空間の中に、なにかをレイアウトしていくモダニズムのやり方に対して、部分からつくっていくというのは、ある部分に関係性みたいなものがあって、そこから次の関係性につながっていくのだと。

ひさしぶりにチャリで三宮へ。ノマドという服屋さんがあるのだけれど、そこのホームページをみるときにはいつも店名で検索していくのだけれど、それがなぜかというとお気に入りに登録していないからで、お気に入りフォルダのなかの大量のお気に入りページのなかから探す手間を考えれば検索するほうが早いからなのだけれど、検索するときにいつも店名をど忘れしてしまい「モサド 神戸」とか検索してしまう。StitchandSewのショルダーバッグの実物をみにいく。土嚢に使われるビニールを使ったショルダーで、ノマドのホームページでみる限り、グレーの色の感じと「たんなる袋」というような佇まいがよい。やはり工業用ビニールシートだけあって素材感としては多少チープな感じがするが、ショルダーだからいちおう「バッグ」というふうには見えるし、グレーの発色がよいので、たぶん大丈夫だろう。4年くらい前に買ったフライターグのショッピングバッグは、いつものトラックの荷台の素材でつくられた簡素な縦に細長いトートバッグなので、それを持って神戸のインテリアショップで買い物したらレジのひとに「そちらもおまとめしましょうか?」と言われてしまうくらいチープだ(バッグではなく買い物袋だと思われていた)。今年の2月やったか気まぐれに大阪にやってきた平間君にも、なんで買い物袋もってるんですか?というようなことを訊かれた。ジュンク堂にて新刊チェック。ちくま学芸文庫で、隈研吾「反オブジェクト―建築を溶かし、砕く」、ジョン・ケージ著/小沼純一編集「ジョン・ケージ著作選」というのが出ていた。「ジョン・ケージ著作選」は文章ごとに書体やレイアウトが違う。ちくま新書松原隆一郎「経済学の名著30」というのも気になる。天満橋ジュンク堂でみかけた、河本英夫「哲学、脳を揺さぶる」も面白そうであった。「オルタナティブ・モダン――建築の自由をひらくもの」の第3巻「藤本壮介 新しい単純さ/新しい多様性をもとめて」を読み終わり、第4巻「西沢立衛 関係性をめぐって」を読み始める。岩田規久男「経済学を学ぶ」もぼちぼち読み終わりそうだ。昨日やったかいつだったか、美学、いわゆる美学、を生活の倫理に結びつけて論じているらしき本とちらっとすれ違ったが、それは、なんというか、うっとうしいような気がする。倫理を語りだすと説教臭くなる、というか、説教そのものでしかない。倫理、というか、生き方と、美学ひいては芸術、は私のなかでは無関係だし、とはいえ結び付けたいのも分からなくはないけれど、芸術的な生き方とか創造的な生き方とか、そういうことばの意味じたいがよく分からない。個人的な理想や規範の投影としての「表現」は、どこかうっとうしい。うん、そういうふうに生きたい、そういうふうに自分を見てもらいたいのは分かった。でもそれは私の問題ではないし、私とあなたとの関係、私とあなたの表現との関係、とはぜんぜん関係ない。とか思ってしまったりもする。でもそんなこと言っても意味ないし、もちろん書いても意味ないので、私自身が、誰かや、その誰かの表現と、どういうふうに関わっていくか、ということを考えるしかない。チャリで三宮に行く途中、春日野道をすこし過ぎたあたりで、いや過ぎるまえか、長髪で部分的に金髪の男性、たぶん40歳くらいだと思うけど、が着ていたタンクトップの背中の下の方にごちゃごちゃした絵柄に混じって「POISON」って書いてあるのがちらっと見えて、毒か、、と思った。毒って書いてあるタンクトップをあえて着る理由はなんだろう。自己イメージの演出としての洋服、ファッション、ってなんだろう。今日は旧居留地のコムデギャルソンにも行ってみたが、店員のみなさんが揃いも揃っていかにも「ギャルソン!!」な感じなので、逆に気持ち悪い。「逆に」かどうかはよく分からないけれど。そうなると、どうしても、ある世界観を無条件に信じきっているように見えてしまうので、気持ち悪いのかもしれない。「ブランド」教、とでもいうのか。いや、店員だから、それらしく着ないといけないだけか。