先週土曜日に三宅さんとSEWING GALLERYへ。私たちも参加している「おんさ」展を見るべく。いとへんとバイエルとgalerie6cでも同時開催中で、日曜にはいとへんに寄ってからFLOATに行こうと思っていたのだけれど、予定よりすこし寝坊してなおかつかつ起きてからしばらくボーッとしていたので、行けなかった。SEWING GALLERYに16時半くらいに着いたと思うのだけれど、誰もいなくて、店番というかそのような役目の人すらいなくて無人で、とりあえず勝手に見ていたら、お寺の住職っぽいじいちゃんが廊下の先からやってきて、誰かきとるな、という感じでちらっと覗いていったのを除けば誰にも会わなかった。展示としては、40組が参加していて、ジャンルとしては、平面と映像で、映像は私たちだけ。でもぜんぜん映像じゃないけど。会場写真がここに。→http://sewing-g.com/sg/2009/07/swimy-projectvol-1.html イケダユーコさんと内田京介さんの作品が写ってないけど。いろいろな作品があって、それぞれに興味深く見たのだけれど、とりわけyubicoさんとイケダユーコさんの作品を楽しく見た。ほんとなんかここ何日か、この日記にいろいろ書いているのだけれど、『自分の視界の限界を受け入れつつそれでも全体を見回そうとすると(超越論的な視点??)、とたんになにもかもつまらなくなるという、ことなのだけれど、つまらない、ということばは自分の感覚をどうも適切に表していないようで、あまりに「ただそれだけ」なので、どうしたらいいか分からない、という感じのようにも思える。』という気持ちの状態をもうすこし適切に言い表すことばがあって、「どうしたらいいか分からない」というよりも、「なんだかよそよそしく思える」ということかもしれない。なので、実際に誰かの作品を目の前にすると、わりあいそれだけでうれしいというか、楽しく見ることができる。なんだかよそよそしく思えてどうしたらいいか分からなくなるのは、具体的ななんらかの作品じゃなくて、「無数の作品」という観念を実体化して想定してしまっているからなのだろう。そりゃよそよそしかろう、まだ見ぬ作品なんて。とはいえ、実際に目の前にした作品のなかにも、なんだかよそよそしく思えてどうしたらいいか分からないものはあるけれども。その原因はもう分かりきったことで、前提を共有できないからだ。というのはすこしざっくりすぎて、正確には、そこで前提とされているものが「どういうものか」分からないからだ。もちろんどういう前提か分かったうえで共有できない場合もある。あと、前提といっても、言語化できるものだけではなくぼんやりしたものも含まれる。いや、前提がどうやらというよりも「面白がり方」が作品とは別のところに置いてあり、かつ、それを見つけだせないし、自分でもつくりだせない、場合ということか。実験的か大衆的か、とかいうのとは無関係に、これは起きる。なので、大衆的だから分かりやすい、とか実験的だから分かりにくい、というのは、表面的なイメージにすぎない。大衆的な表現が自らが大衆的であることの自覚があるために、大衆的=分かりやすい、と思い込んでしまったり、逆に実験的な表現が自らが実験的であることの自覚があるために、実験的=分かりにくい、と思い込んでしまったり、しているのは、よくある。表現様式とは無関係な見せ方の問題なのに。あと「作品」というとき、重要なのは、たいていの場合、作者が目の前にいないことで、これはけっこうおおきい。なんかこう作者が目の前にいると、作品と作者の両方を相手にしないといけないので、しんどいというか、単純に作者=人に気をつかってしまうので、作品を見ずらい。私の場合。というわけで、芸術なるものについて考えるときに、その芸術なるもの自体については抽象的な思考が可能かもしれないが、芸術なるものを具体的に構成する作品についてはあまり抽象的な思考をしても意味がなさそうだ。これから出会うかもしれないし出会わないかもしれない表現について、いままで出会った表現についての思考を延長することで捉えようとするのは、あまり意味がないかもしれない。というわけで、最近はしばらく、結果的に、自分の偏見を洗い出す作業ばっかりになってしまったのですが、これからすこし検証をしていきたいと思います。こういう作業の根本にあるものすごく単純な動機は、なぜ自分には嫌いな作品・表現というものがあるのだろう、どのような意味でその作品・表現が嫌いなのだろう、ということです。別に嫌いなら嫌いで放っておけばいいし、実際にそうするのが普通だと思うのですが、なんだか納得がいかないわけです。もちろん自分の偏見を正当化したいわけでもありません。いろいろ考えて、やっぱりただの偏見だな、というふうになりそうなことはかなりあります。嫌いな作品・表現に関して、嫌だから嫌、みたいな説明を自分に対してしたくない、というのがとりあえずあって、それがなんでかというと、なんだかんだ言って、一般的には「作品・表現=作者」という図式が流通していて、作品を嫌ってしまうと、作者まで嫌っていることになってしまうからです。誰かを嫌うと自分がその誰かに嫌われるものなので、これはやはりちょっと嫌です。このような八方美人的な理由がまずあり、さらに作品・表現が作者と切り離して考える習慣が一般にない以上、簡単に作品・表現を嫌いになるわけにもいきません。まあ、嫌いは嫌いでいいんですが、どう嫌いかははっきりさせておきたい。でも嫌いなことについて考えるのは、別にそんな面白いことでもないので、やらなくてもいいのかもしれません。むしろ、やらない方がいいのかもしれませんが。いやいや、違うかもしれません。嫌いなのがどうとかというより、なぜこんなにもたくさんの表現者という人々がいるのだろうか、という素朴な疑問です。いや、たくさんいろいろやっている人がいるのはいいことなのですが、なんのためにみんなやっているのだろう、という素朴な疑問です。「なんのために」と言われても困るというのが正常な反応だと思いますが、しかしなんのためにやっているのでしょう。温暖化に関係あるわけでもないし、経済問題に関係あるわけでもない。少子化や介護の問題に関係あるわけでもない。食料問題や、紛争に関係あるわけでもない。表現者が個人的に興味のある表現分野にのみ関係している。完全に個人的な活動と、閉鎖的なコミュニティでのコミュニケーション。「なんのために??」という疑問は私たち一般の人の感覚からしたら当然だと思います。うーん、さっぱり分からないので、とりあえず、思いつくところからいきます。「労働と消費としての表現行為」について、「フォード主義によって労働者は、単純労働と引き換えに消費の楽しみを与えられた」、言い換えれば、消費の楽しみという人参を労働者の鼻先にぶらさげて生産性を上げようとした、ということとからめて考えてみましたが(http://d.hatena.ne.jp/k11/20090624)、構想なき実行=「労苦」と余暇=「消費の楽しみ」、仕事(労苦)と遊び(消費)という図式は、わりあいこれはもうどうしようもないというか、構想なき実行はまだしも、消費の楽しみからは誰も逃げられないように思います。仕事とプライベート、という分離は、もはや絶対的な感覚というか、当たり前の感覚です。なので、私はそういう図式自体に文句をつけようとは、とりあえず、思いません。では、なにが気になるかといえば、労働と消費としての表現行為という図式についてです。表現(生産)行為ですら消費行動としてコントロールされている、というようなこともひとしきり書いたのですが、あからさまに表現欲求のための市場が存在するので(貸しスペース一般や自費出版代行など)、これはあながち的外れでもないかなと思います。私は、人間がなにかを表現することの、考え・現す・考え・現す、という循環は、人間にとって有用なことだと考えていますが、表現行為の結果に生じる創作物を「発表」する、ということに含まれる社会的な意味ばかりが肥大していくことには疑問を持っています。つまり「見られること」への欲求だけが肥大して、それだけが表現行為の動機になってしまう、ということが、一般的にある、とまでは言いませんが、実感としてかなりある気がする、とは言えます。とりあえず、自分に即して考えてみます。なぜ私は(この日記をも含めて)表現行為を行うか。とりあえず、自主的に日々更新するこの日記を別にすれば、私の表現行為は、誰かから頼まれたり、誰かから持ち掛けられたり、しない限り、行われません。もちろん、誰かから頼まれたからやる、という答えは「なぜ表現行為を行うか」という問いの答えになっていませんし、それはたぶん理由ではありません。理由としては、日々感じる疑問や楽しさについての反応として、表現行為を行っている、という答えが、ある程度は正確に自分の気持ちを表しています。つまり、自己の内面や他人へのメッセージや「やりたいこと」をやる、というような「発信」型の表現ではなくて、社会からの刺激に対しての「反応」型の表現だということです。なので、きっかけもないのに表現することができないわけです。仕事でも家事でもなんでもいいですが、なんらかの問いかけや問題が発生したときになにかしらの答えや解決策を出す、というような、社会のたいていの人が経験することと同じです。とはいえ、いくらことばを積み重ねようが、自分はなぜ表現行為を行うか、という問いに、満足のいく答えは出せません。つまり、自分の表現行為を正当化することは不可能なのです。いくら自分の信じるなんらかのメッセージを発信しているからといって、それが社会に必要とされているかどうかは、自分の視点だけからは見えません。そもそもそのメッセージの内容が、現在的かどうかの判断も自分の視点だけからは見えません。やはり、自分の表現行為について確固たる正当性があると信じ切ってしまうのはずいぶん危険かと思われます。こういう状態は、どこか、自身の表現行為の正当化がそのまま自己のアイデンティティの正当化になってしまっている(だからこそ、自身の表現行為の正当化をひとつの信仰として死ぬまで信じ切らないといけない)といいますか、表現行為とアイデンティティが癒着してしまっているようにも見えます。自分が自分であるために表現し続けないといけない、というような強迫観念があります。過剰に自己愛と自己顕示欲が強く、芸術という信仰のためには迫害を受けることはおろか死をも厭わない、というような、ものすごく古いステレオタイプな芸術家観がまだ存在していて、それに同一化しようとする表現者も、いまだに存在しますし、その気持ちは分かりますが、疑問もあります。そういうふうに、表現行為と表現主体の自我が距離をとれていない状態でなされた表現は、どこか窮屈というか、押し付けがましさを感じてしまいます。作者の葛藤が云々とか、それが良いという価値観もあるとは思いますが、私にとっては窮屈なだけです。はなしがずれました。では、きっかけもないのに表現しているこの日記はなんなのでしょう。とりあえず思いつく言い訳としては、いつか来るかもしれないきっかけのための準備運動としての考え事の記録、ということかと思います。そしたら、なにもパブリックに公開する必要はないのですが、私が悩んでいることについて誰かからアドバイスをもらえるかもしれない、ということを期待して、公開しています。ここに書いていることは自己主張のように見えますが、そういう側面もありますが、、自分が考えていくための叩き台だと割り切っていますので、あまり真に受けず適当に読み飛ばしていただくことをおすすめします。いろいろ書いていますが、本当にそう思っているわけではなくて、いやけっこう思ってますが、自分の偏見を対象化して考えるために書いている感じです。あと、いまさらながら、補足なのですが、私が「芸術」とかいうとき、人間がなにかをつくりそれを自分でも見て、他人も見て、他人が見ているのも見る、みたいなごく単純な意味であって、知的なゲームとしての「芸術」を指しているわけではありません。さっき、気づきました。知的なゲームとしての「芸術」については、語る資格を持ちません。実のところ、知的ゲームとしての「芸術」には、そんなに興味がなさそうです。かつてどんな人がどんなことを「芸術」界でやっていて、いまはどんな人がどんなことを「芸術」界でやっているか、ということに、さほど興味が沸かないからです。積極的に情報を集めようと思わないのは、なぜなんだろう。いま好きなのは、建築家の語ることばです。とても面白い。物理的な環境へ物質を持って働きかけることで、どのように、人間にとっての見えない質をつくるか。そうだそうだ。青木淳「原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ」は昨日読了しました。いまは、松原隆一郎「消費資本主義のゆくえ―コンビニから見た日本経済」とハンナ・アレント「人間の条件」を主に読んでいて、気が向いたらとか寝る前とかにジョン・ステュアート・ミル「ミル自伝」とヤスパース「哲学入門」を読んでいて、田尻裕彦,石堂威,小巻哲,寺田真理子,馬場正尊 監修「この先の建築」はちょっと中断していたので再開したい。あと、ボードリヤール「物の体系」も「C メタ機能=非機能の体系―ガジェットとロボット」まで読んで中断しているので再開したいけれど、アレントがけっこう強敵なので、ボードリヤールにはちょっと待っててもらいたい・・。「人間の条件」を読んでいて、ポリスにおいて、経済の問題はすべて私的な領域の問題で、公的な領域には一切の経済的な問題を持ち込んではならなかった、みたいな記述があって、なんとなく、山本握微さんの「普通芸術」を思い出す。普通芸術家はなぜサラリーマンでなければならないかというと、「ふつう」に考えて、芸術という公的な領域に経済的な利害を持ち込まないで済むためには、サラリーマンになって経済的に自立するというのが、いちばん簡単で一般的だからだ。今日は久しぶりに古書・雑貨バートルビー店主のおうちへ。ちらっと打ち合わせめいたことをするも、ほぼ雑談で、途中から映画監督を目指している方もやってきて、3人でダラダラ過ごす。榎本俊二ムーたち」という漫画を読ませてもらい、衝撃を受ける。形式=ルールの面白さとルールの表象の面白さがすごい。ここまで洗練されてはいないけど、平間君や私がやっている遊びは、こんな感じだ。磯崎憲一郎「終の住処」のはいった新潮を貸してもらい、帰りの電車のなかで読む。昼ごはんもごちそうになる。ロゴ製作とホームページ製作の謝礼もいただく。請求書を書くのは緊張する。たくさんもらってしまったので、というわけではないけれど、なにか手伝えることがあればどんどん手伝っていきたい。なにやら面白そうだし。